(10)松原(まつばら)の干拓(かんたく)


松原は、古(ふる)く奈良(なら)時代(じだい)から、松原内湖(ないこ)を中心(ちゅうしん)にその四方(しほう)の景色(けしき)がすばらしく、春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)を通(つう)じて、美(うつく)しいところとして知(し)られていました。
内湖にはいつも舟(ふね)が浮(う)かび、夏(なつ)になると、夜(よる)は屋形船(やかたぶね)で舟遊(ふなあそ)びをする人(ひと)が多(おお)くあったそうです。
松原内湖畔(ないこはん)にある大洞弁財天(おおほらべんざいてん)や清凉寺(せいりょうじ)・龍潭寺(りょうたんじ)にお参(まい)りする人々(ひとびと)が屋形船を利用(りよう)していたそうです。
また、内湖は、こい・ふなの産卵地(さんらんち)でもあり、「えり」や「やな」がしかけられ、漁業(ぎょぎょう)でくらしを支(ささ)えている人もいました。
取(と)れる魚介類(ぎょかいるい)は豊富(ほうふ)で、毎日(まいにち)、朝市(あさいち)が開(ひら)かれるほどでした。
しかし、大正(たいしょう)時代に入(はい)ると、耕地整理(こうちせいり)が行(おこな)われ、内湖の西側(にしがわ)は埋(う)め立(た)てられ田畑(たはた)になりました。
さらに1923年<大正12年>に港湾(こうわん)が作(つく)られると、内湖の南側(みなみがわ)の一部(いちぶ)も埋め立てられ、総合(そうごう)運動場(うんどうじょう)や水産(すいさん)試験場(しけんじょう)<現在(げんざい)の城北(じょうほく)小学校(しょうがっこう)の位置(いち)>が作られました。
農家(のうか)のほとんどは、舟を持(も)っていて、朝(あさ)早(はや)くから仕事(しごと)道具(どうぐ)を積(つ)みこみ、弁当(べんとう)持ちで内湖に出(で)て田畑に通(かよ)いました。
昼(ひる)になると、柳(やなぎ)の木(き)の下(した)に舟をとめて、弁当を広(ひろ)げたり昼寝(ひるね)をしたりし、夕暮れ(ゆうぐれ)になると、野菜(やさい)などの収穫物(しゅうかくぶつ)を積みこんで帰(かえ)るといった、のどかな光景(こうけい)が見られました。
松原内湖の干拓は、戦争(せんそう)で人手(ひとで)不足(ぶそく)の中、1944年<昭和(しょうわ)19年>5月に42万円(まんえん)の予算(よさん)で始(はじ)められました。
突貫(とっかん)工事(こうじ)によって、7月1日には、お田植(たう)え祭(さい)が行われ、450反(たん)の植(う)えつけが強行(きょうこう)されました。
排水(はいすい)設備(せつび)の不十分(ふじゅうぶん)な約(やく)100反を除(のぞ)けば、稲(いね)はよく育(そだ)っていましたが、10月7日の豪雨(ごうう)のため一夜(いちや)にしてもとの内湖にもどってしまいました。
連日(れんじつ)の排水作業の結果(けっか)、ようやく600俵(ぴょう)のお米(こめ)を収穫することができましたが、それは予想(よそう)の半分(はんぶん)にもおよびませんでした。
同(おな)じ年の11月から、戦争で食料(しょくりょう)や物資(ぶっし)の不足(ふそく)する中、学徒(がくと)<学生(がくせい)>をかりだし、本格的(ほんかくてき)な工事を開始(かいし)しました。
龍潭寺、清凉寺、彦根(ひこね)経済(けいざい)専門(せんもん)学校(がっこう)が寄宿舎(きしゅくしゃ)となり、婦人会(ふじんかい)のおかあさんたちが炊事(すいじ)や洗濯(せんたく)などの奉仕(ほうし)をしました。
さらに、1945年に戦争が終(お)わった後(あと)、10月からは、一般(いっぱん)の労働者(ろうどうしゃ)や開拓民(かいたくみん)によって続(つづ)けられ、1948年の3月にようやく完成(かんせい)しました。
戦中(せんちゅう)・戦後(せんご)の食料不足(ぶそく)を補(おぎな)うために作られ、多くの人々の苦労(くろう)によって完成された干拓地も、少しずつ昔(むかし)の面影(おもかげ)が消(き)え、近代的(きんだいてき)な住宅(じゅうたく)が立ち並(なら)ぶようになりました。
そして、一部の田畑を除(のぞ)いて、そのほとんどがさらに埋め立てられて、城北小学校や体育(たいいく)センターなどの公共(こうきょう)施設(しせつ)が作られました。

郷土(きょうど)読本(どくほん)「ふるさと城北」

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