さいほうのおっしょさん

彦根市大堀町のお話


彦根市の大堀橋(ばし)のすそを芹川(せりがわ)の方へおりていくと、くらかけ山という、小さな山があります。

秋になると、山の木々が赤々とそまり、近くの小学校がら、おちばや木のみをひろいにやってくる子どもたちの声が、にぎやかにひびきわたります。

くらかけ山へのぼる道から、少しはずれたところに「報恩記念碑(ほうおんきねんひ)」とほられた大きな石がたっています。木々のしげみにかくれているので、気のつく人はあまりありません。

この記念碑(きねんひ)が、どうしてたてられたのかおはなししましょう。

今から、百五十年ほど前のことです。

山のふもとの村は、大堀村といわれていました。村には、小川絹(きぬ)さんというたいそうはたらき者の女の人がすんでいました。絹(きぬ)さんは、坂田郡(さかたぐん)で生まれたのですが、二十二才の時、この村の助三郎(すけさぶろう)さんのおよめさんになったのです。

二人は、なかよくたすけ合ってくらしていました。女の子二人、男の子四人の子宝(だから)にもめぐまれ、まわりの人たちがうらやむほどでした。

ところが、助三郎(すけさぶろう)さんは、わかい時に病気にかかりなくなってしまいました。絹(きぬ)さんは、たいそうかなしみましたが、六人の子どもたちのことを思うと、いつまでもかなしんでばかりもいられません。田んぼやはたけををたがやしながら、いっしょうけんめいにはたらきました。

けれども、六人もの子どもをかかえて、絹(きぬ)さん一人のはたらきでは、食べていくことができませんでした。そこで、絹(きぬ)さんは、野良仕事(のらしごと)のかたわら、近くの娘さんたちのさいほうを教えることにしました。そのころは、ほとんどの人がきものをきていて、自分たちの手でぬわなければなりませんでした。ですから、さいほうは、むすめさんたちにとって大切な仕事の一つでした。

絹(きぬ)さんのさいほうの仕方は、へらでしるしをつけてするへらぬいではなく、だいたいのしるしをつけてぬうはかりぬいでした。だから、むずかしいことがわからなくても、かんたんにおぼえることができました。

絹(きぬ)さんやさしい人がらにひかれて、大堀村だけでなく、ほかの村々からもむすめさんたちがならいにくるようになりました。多い時には、二十人ものむすめさんたちが、色とりどりのぬのをならべて、家の中は、足のふみ入れる場もないほどでした。

絹(きぬ)さんは、さいほうだけでなく、れいぎ作法(さほう)なども教えるようになり、いつのまにか、「おっしょさん」とよばれ、みんなに親しまれるようになりました。絹(きぬ)さんのひょうばんを聞いたむすめさんたちは、つれだって遠くは磯(いそ)村あたりからも、とまりがけでならいにやってきました。絹(きぬ)さんの家でごはんを作りいっしょにくらしながら、さいほうを教えてもらったのです。

教え子たちは、おせわになったおっしょさんをしのんで、くらかけ山のふもとに、記念の碑をたてることにしました。

「報恩記念碑(ほうおんきねんひ)」には、絹(きぬ)さんをしたうむすめさんたちの心が、こめられています。

(「郷土史旭森」による)

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