磨針(すりはり)

彦根市中山町摺針(すりはり)のお話


彦根市の北のはしにある鳥居本は、昔、中仙道という街道が通り、旅ゆく人々でたいへんにぎわった宿場町でした。この鳥居本の宿(しゅく)から、米原町番場(ばんば)にぬける道は、曲がりくねった山道で、その中ほどに、うっそうとおいしげった峠がありました。


その昔、この山道をとぼとぼと力ない足どりで登ってくる、一人の若いお坊さんがおりました。墨染め(すみぞめ)の衣を着、肩にはおい箱を背おっています。お坊さんは、寺の用事で京から江戸に行く途中なのでした。「ああ、もうがまんできない。いくら修行とはいえ、私の志したこととはまるで違う。水くみや落ち葉かきをしたって、何の足しになろうか、国をでたときには、早くりっぱなお坊さんになろうと、勇んで京にのぼったのに、こんなことをしていたのでは、いつのことになるやら。あああ、いっそ国で畑を耕していた方がよかった。」お坊さんの足どりは重く、口からは日ごろのぐちが、ため息まじりについてでます。

ようやくのことで、お坊さんは峠のお宮さんにたどりつきました。そして、石段のところでおい箱をおろし、流れる汗をぬぐいました。眼下には、さざ波のきらめく琵琶湖が横たわっています。そのすばらしいながめに今までの苦しさもどこかへ消え、心が洗われるように思われました。

お坊さんが、ふと横を見ると、一人の白髪(しらが)のおばあさんが何やら一生けんめい仕事をしているのに気づきました。なおもよくみると、おばあさんは一本の大きな斧(おの)をゴシゴシと石にこすりつけているのです。お坊さんはびっくりして、

「おばあさん、おばあさん。いったい何をしておられるのですか。」

とたずねました。おばあさんは、にっこり笑い、

「実は、一本きりの大切な針を折ってしまいましての。孫の着物もぬってやれません。そこで、こうして斧(おの)を摺(す)って針にしようとおもいましての。」

と言いながらも、手を動かすのをやめようとはしません。

「そんな大きな斧(おの)は、ちょっとやそっとでは、すりへりませんよ。」

「いいや、すりへりますよ、いつかはな。」

「ずいぶんてまがかかりますよ。」

お坊さんがなおも言いはりますと、

「どうしても針がほしいもんでの。」

とおばあさんは答え、一生けんめい手を動かしています。若いお坊さんは、ぐっと胸がつまり、こうつぶやきました。

「わたしも、どうしても立派なお坊さんになりたかった。」

「そんなら、おなりなさるがよろしいがな。あきらめんとな。」

ホホホと笑うと、おばあさんの姿はフッと消えてなくなってしまいました。

斧(おの)をはりに・・・。

お坊さんは、はっとして、このお宮さんの前にぬかずきますと、手をあわせました。これは、弱気になっている私に、この地の神様がはげましてくださったのだ。根気さえあれば、どんなことだってできる。お坊さんは、深々とお礼をすると、足どちも軽く、峠をこえて旅をつづけられました。


後、数々の修行を終え、立派になられたお坊さんは、「弘法大師」とよばれるようになりました。弘法大師は、再びこのお宮さんを訪れ、おもちをどっさり供えられました。そして、お宮さんの境内に杉の木を植え、あの時、白髪のおばあさんに教えられたことを、次のような和歌によまれました。

道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ
斧(おの)を針とせし 人もこそあれ。

その時から、この地を「磨針(すりはり)」とよび、このお宮さんを「磨針大明神」とよぶようになったそうです。弘法大師の供えられたおもちは、村の人々にうけつがれ、「すりはりもち」として、望湖堂(ぼうこどう)、臨湖堂(りんこどう)などの茶店で休む旅人たちに、もてなされたそうです。

(望湖堂 田中氏のお話より)


参考
後日談

弘法大師の杉

弘法大師お手植えの杉の木は、惜しいことに昭和五十六年の大雪で倒れ、現在は切り株しか残っていない。明治天皇や朝鮮からの使節団もここで休憩されたという望湖堂(ぼうこどう)はこの杉のすぐしたにある。この望湖堂(ぼうこどう)の奥さんの話しによると、杉の木の倒れる半年程前、奥さんの夢の中に一人のお坊さんが立たれて、

愚海(ぐかい)の海は荒れるとも、
乗せて必ず 渡しける

という歌をよまれたそうである。この歌は、「大嵐になり、いくら海が荒れるようなことがあっても、私が救ってやるから安心するがよい。」という意味なので、半ば安心するとともに、何か大変なことが起こると心配されたようである。

昭和五十六年十二月十五日明け方、バリバリという大音響とともに、家中が地震のようにゆれた。あわてて外を見ると、玄関は木でふさがれ、杉の木が倒れたことがわかったという。今まで幾度(いくど)も風で枝が折れるようなことがあっても、望湖堂の母屋(おもや)の棟(むね)に当たったことはないので、あの歌の大嵐とはこのことかと思い、大事に至らなかったとむしろ安心されたそうです。

木は神木なので、切ることに反対もあったが、とうとう切られることになった。ところが、切る費用以上に高く枝がうれ、お宮さんの費用になったこと、木を切る二月はいつも北風がふきつけてたいへん寒いのだが、木を切っている七日間は、風も雲もないよいお天気に恵まれたこと(風があるとワイヤーがゆれ、切れることもあり、雲が流れると木を切る目算(もくさん)がくるうのでたいへん危ない)、望湖堂(ぼうこどう)の屋根を直す三月は、瓦屋が「三月にこんなによいお天気がつづいたのは今までに一回もない」と驚くほど快晴だったこと等、不思議なことが続いたという。

幹の中は空洞であったが、その周りは八メートル、枝の長さは、実に四十メートルもあったそうである。

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