犬上川の人柱「お丸」

彦根市甘呂町(かんろちょう)のお話


彦根市内を流れる大きな川に、芹川(せりかわ)、犬上川、宇曽川(うそがわ)がありますが、これらの川は、ずっと昔は、大雨のたびのよく氾濫(はんらん)し、あたりの村人をたいへん困らせていました。

なかでも、犬上川は、特に曲がりくねった川で、すぐ堤防が切れて洪水となり、川の水が家の中までどっとおしよせるやら、田畑を流すやらで、農家の人々をなげかせていました。


今から四百年ほど前、日本中が領地争いを続けていた戦国時代のことです。

彦根の近くでも、湖北の浅井長政(あさいながまさ)・福井の朝倉義景(あさくらよしかげ)の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍とが東西に分かれて戦いを始めようとしていたときでした。

戦乱はながびき、田畑は荒らされる上に軍用米(武士の食料)として、年貢(ねんぐ)のとりたてもいっそうきびしくなりました。

お米を作っている百姓は、自分たちの食べるお米すらなくなり、飢えに苦しむというありさまでした。また、その年に限って、何日も雨が降り続き、またもや甘呂町の島田堤がくずれ、海のような大波におそわれ、家や田畑も流され、ついには、死者、行方(ゆくえ)不明者も出ました。

水がひいた跡の田畑は、すきやくわもはいらないほど石だらけになっていました。村人たちは、そんな苦難にもめげず、堤をなおし、もとどおりの田や畑にしようと朝早くから夜遅くまで働き続けました。やっとの思いで、なんとかお米や野菜がとれるような、もとどおりの田畑になったと思う間もなく、またもや雨による増水で堤が切れてしまうのでした。

一方、地頭(じとう)は、そんな災難(さいなん)におかまいなく、村人たちから決まっただけの年貢を取りたてにくるのです。もう出せる米など少しもない、と命がけで村を逃げ出す人もありました。しかし、役人たちにすぐつかまって、きびしい罰に処せられるのでした。

こうなっては、島田堤がきれないように大修理をするしかありません。村人がみんな集まって良い方法はないものかと、毎日毎日相談をするのですが、これといって良い方法が出てきませんでした。

そんなある日、お丸という心やさしい庄屋の娘が、竜神(りゅうじん)の怒(いか)りをしずめ、父や村人たちの苦しみを救おうと、自ら名のりでて、大雨で、今にも切れそうな島田堤から、荒れ狂(くる)う大水の中へ真っ白な衣装で身を沈めていきました。

それからというもの、雨が降っても島田堤が切れるということはなくなり、村人たちは、大そう喜びました。


お丸が沈んだといわれるところに、いまも丸堂(まるどう)という池が残され、彦根南中学校のグランドの北側にあり、毎年のこう水から田畑を守っています。

甘呂町(かんろちょう)一帯の村々では、今年も、豊かな穂を実らせているということです。

お丸の話しは、代々伝えられ、毎年夏の盆踊りなどでうたわれる「江州音頭」の一節に入っています。


お丸

時は元亀(げんき)の初め頃 二百十日の大あらし
島田堤がまた切れた うしほの如(ごと)き大波に
家は流され人は死に 上の島田や中島田
水の引いたる其(そ)の跡(あと)は、大砂原となり果てて
これに加えて世の中は 姉川合戦の真最中
軍用米の徴発(ちょうはつ)で 時の地頭にいじめられ
露命(ろめい)をつなぐばかりにて いかなる長者も金持ちも
小判くわえて死出の旅
島田堤はよく切れる 直す間もなく又切れる
庄屋の娘のお丸どの 夜明け不思議な夢枕
島田堤の人柱 私の身をば供えませ
どうせ一度は死する身の 薄(うす)き縁(えん)とおぼし召(め)し

お丸は水で身を清め 悲し末期(まつご)の薄化粧
白装束(しょうぞく)に数珠(じゅず)をもち 六字の名号(みょうごう)背に負うて
やがて定めの時となり 両手をついて父上様
長のお世話になりました 村の衆もお達者でと
この一言の気高さに 泣かぬ者とて無かりけり
南無阿弥陀仏阿弥陀仏 皆一様に手を合わせ
暫(しば)し涙にかきくれる
神鎮(しず)まりし其の後は 丸堂の切れた事もなく
不老長寿の水が湧き 清き流れは青柳の
甘呂の里の稲草の 下百反の田用水
深き恵みは末永く 丸堂の池と名を残す
そぼ降る雨の夜更には 島田の堤風遠く
お丸機(はた)織る音がする
お丸機(はた)織る音がする

(江州音頭「お丸」抜粋)

また、昭和三十六年二月、甘呂町の内堀三太郎氏が私費を投じて、甘呂町公民館前に小園を作り碑を立てて歌人井伊文子氏の和歌を刻んでお丸の徳をたたえられました。

川波の うづの底ひに 身を沈め
祈りはとは(永遠)の やすらけき村

井伊文子 作

(出典 「甘呂郷士史」甘呂町老人クラブ)

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