遣隋使(けんずいし)     犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)

 推古天皇(すいこてんのう)の15年(607年)遣隋使小野妹子(おののいもこ)のふくしとして中国にわたった犬上御田鍬は、彦根ちほうのごうぞくでした。このとき、隋(ずい)のこうていにあてた聖徳太子(しょうとくたいし)の親書が有名です。 
 推古天皇の22年(614年)の遣隋使には、御田鍬が正使になって、多くのりゅうがくせいとともに隋の国へ行きました。 16年後の舒明(じょめい)2年(630年)には隋がほろび唐(とう)になっていたので今度は遣唐使(けんとうし)として中国へわたりました。当時、中国へわたるのは命がけのこうかいでした。大風で船がしずんだり、もくてきの港に着けなくて、遠く南の方に流されることもありました。 
 このようなくなんをのりこえて、中国にしせつとしてわたった御田鍬は、ちょうていのじゅうような役人のひとりでした。そして、中国の進んだ文化を日本につたえるたいせつなはたらきをしました。なお、犬上ぐんという地名も、御田鍬のせんぞにかんけいがあるといわれています。

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鳥籠山(とこのやま)のたたかい     秦友足(はたのともたり)

 志賀(しが)のみやこでそくいした天智天皇(てんじてんのう)が46さいのわかさでほうぎょすると、子の大友皇子(おおとものみこ)とてんのうのおとうと大海人皇子(おおあまのみこ)との間にいくささが起こりました。(壬申の乱(じんしんのらん))
  大海人ぐんは、村国男依(むらくにのおより)がひきいる数万のぐんぜいで、岐阜(ぎふ)県ざかいに不破の関(ふわのせき)から大津(おおつ)をめざしてせめいりました。これをむかえた大友ぐんは、秦友足をぶしょうに、弘文(こうぶん)元年(672年)7月9日鳥籠山でけっせんをしました。 
 秦友足は、数万のぐんぜいで大海人ぐんとよくたたかいましたが、大友ぐんの中からうらぎりがでてぐんぜいがみだれ、友足はきり死にました。こうして大友ぐんはつぎつぎといくさにやぶれ、ついに大友皇子は、7月23日、じさつをしてはてました。 
  「犬上の鳥籠山なるいざや川 
     いさとを聞こせ  あが名もらすな」    よみ人知らず
 鳥籠山は、まんようびとに親しまれた山で、多くの和歌によまれています。

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肥田城(ひだじょう)と水ぜめ     高野瀬隆重(たかのせたかしげ)

肥田城

 高野瀬しは、鎌倉(かまくら)時代のころ、愛知(えち)川にやかたをかまえていましたが、隆重がりょうしゅのとき、六角しのめいれいで、文亀(ぶんき)3年(1503年)宇曽川(うそがわ)ぞいの山王(=今の肥田町)にしろをきずきました。これが肥田城のはじまりです。
 国内がせんらんにあけくれた応仁の乱(おうにんのらん)が終わるころ、隆重は六角しにそむいて京極(きょうごく)しに味方をしましたが、地頭山のかっせんでは、ふたたび六角しに味方をしてたたかいました。しかし、このかっせんでうちじにしました。

肥田城の水ぜめ

 隆重の子秀隆(ひでたか)は、湖北の浅井(あざい)しに味方をしたので、六角義賢(よしかた)は、1万3000のへいで肥田城をせめました。このとき宇曽(うそ)川の流れをせき止めてしろを水ぜめにしました。水は日ごとにましてじょう中は水びたしになり、おぼれ死ぬ者が出はじめました。あわやらくじょうかと思われたとき、大雨がふってせき止めたつつみがけっかいしたため、じょうちゅうの水が引いて、人々はすくわれました。

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佐和山(さわやま)のこうぼう     磯野丹波守員昌(いそのたんばのかみかずまさ)

 せんごく時代の佐和山は、湖北の浅井(あざい)しと湖東の佐々木(ささき)六角しが、たがいにせいりょくあらそいをしたときのせんじょうです。
 はじめに佐和山にとりでをきずいたのは佐々木時綱(ささきときつな)ですが、それからは浅井しと佐々木しのこうぼうがくり返されました。そして、永禄(えいろく)4年(1561年)のかっせんでは、ふたたび浅井しのとりでになって、磯野員昌(いそのかずまさ)が守りました。
 元亀(げんき)元年(1570年)織田信長(おだのぶなが)は、姉(あね)川で浅井長政(あざいながまさ)とたたかったとき、丹羽長秀(にわながひで)に佐和山じょうをせめさせました。しかし員昌の守りがかたく、らくじょうしませんでした。そこで、つぎの年にふたたび佐和山じょうをせめて員昌をこうふくさせ、丹羽長秀がじょうしゅになりました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代になると、ぶしょうの堀秀政(ほりひでまさ)や堀尾吉晴(ほりおよしはる)がじょうしゅになりましたが、つぎに石田三成(いしだみつなり)がじょうしゅになりました。

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りょうみんのくらしを守ったりょうしゅ     石田治部少輔三成(いしだじぶのしょうゆうみつなり)

 三成(みつなり)は、永禄(えいろく)3年(1560年)正継(まさつぐ)の二男としてげんざいの長浜(ながはま)市石田町に生まれました。名を佐吉(さきち)といって大へんかしこい子どもでした。
 天正(てんしょう)2年(1574年)豊臣秀吉(とよとみひでよし)のきんじゅうになってからは、秀吉の手足になってはたらきました。そして秀吉のなきあとは5ぶぎょうのひとりとして豊臣けのためにつくしました。
 近江国(おうみのくに)佐和(さわ)山じょうのじょうしゅになると、文禄(ぶんろく)5年(1596年)に村おきて13かじょうを出して、りょうみんのくらしがらくになるようにしました。これには、年ぐを計る石田ますの使い方や年ぐのおさめ方などをしめして、役人がかってなふるまいをしないようにしました。また、むぎづくりについても、むぎおきてをだして公平なあつかいをしました。
 慶長(けいちょう)5年(1600年)せきがはらのたたかいにやぶれた三成は、木之本(きのもと)の古橋(ふるはし)にのがれたものの、ついにとらえられ、10月1日に京都の六条河原(ろくじょうがわら)でしょけいされました。41さいでした。

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彦根はんしょ代はんしゅ    井伊直政(いいなおまさ)

 直政の父直親(なおちか)は、遠江国(とおとおみのくに)(静岡(しずおか)県)井伊谷(いいのや)のじょうしゅでしたが、桶狭間(おけはざま)のたたかいで今川しにやぶれうちじにしました。
 父をなくしたおさない直政(虎松(とらまつ))は、しんるいの人に育てられながら今川しのついせきからのがれていましたが、徳川家康(とくがわいえやす)に助けられると、名を万千代丸(まんちよまる)とあらためて家康につかえました。
家康は、天正(てんしょう)10年(1582年)万千代丸を16さいでげんぷくさせ、名を直政(なおまさ)とあらためさせました。そして、木俣(きまた)・庵原(いはら)・西郷(さいごう)のかしんをかろうにつけて井伊谷のじょうしゅにしました。直政は、家康のおんにむくいるためいくさのたびに先頭にたってたたかいました。そのぶゆうにかんげきした家康は、ほろんだ武田(たけだ)しの赤ぞなえたいを直政にあずけて、徳川ぐんのせんぽうたいにしたので、井伊の赤ぞなえとしておそれられました。
 関が原(せきがはら)のいくさで手がらをたてた直政は、佐和(さわ)山じょう15万ごくのじょうしゅになりました。でも、いくさで受けたてっぽうきずがもとで、慶長(けいちょう)7年(1602年)42さいでなくなりました。

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ふだいひっとうの大名     井伊直孝(いいなおたか)

 直孝は、直政(なおまさ)のだい二子として、天正(てんしょう)8年(1580年)に生まれました。おさないころは、母の実家で育てられ、12さいのとき佐和山(さわやま)じょうにきました。13さいで二代しょうぐん徳川秀忠(とくがわひでただ)のかしんになって江戸(えど)へ行き、慶長(けいちょう)18年(1613年)京都伏見(ふしみ)じょうのるすいやくになりました。大阪(おおさか)冬のじんがおこると、家康(いえやす)は兄の直継(なおつぐ)にしゅつじんを命じましたが、病気がちだったので、直孝が、兄のだいりとしてしゅつじんしました。そのこうせきで、家康は直孝を彦根はんだい二代はんしゅにしました。よく年の元和(げんな)元年(1615年)大阪夏のじんにもしゅつじんしてだいかつやくをしたので、秀忠から5万ごくのかぞうを受けました。
 ぶゆうにすぐれた直孝は、しょうぐん秀忠・家光(いえみつ)・家綱(いえつな)の三代にわたってちゅうぎをつくし、ときにはたいろうにもなりました。また、さいさんのかぞうで、彦根はん35万ごく(京都しゅごとしてあずかり米5万ごくがふくまれる)ふだいひっとうの大名になりました。万治(まんじ)2年、70さいでなくなりました。

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柳川(やながわ)そうどう     田付新助重孝(たづけしんすけしげたか)

 だい十代はんしゅ直幸(なおひで)は、くるしくなったはんのざいせいをたてなおすため、りょうみんにつめん(つみたてちょきんのいっしゅ)を命じて、はんにお金をあずけさせました。そして、集金がかりとして町方から4名、村方から3名の代表者をえらびました。柳川村(やながわむら)の田付新助は、村方の代表でしたが、はんのめいれいを何度もことわりました。しかし、ゆるされないので、しぶしぶ引き受けることにしました。
 りょうみんは、はんのめいれいにしたがってお金をあずけました。ところが、お金を返してもらうときは、彦根はんだけにしか通用しない米さつ(お金と同じねうちだけの米のりょうを書いたかみ)をわたされたので、りょうみんはふあんになりました。そんなとき『ばくふのめいれいで、米ふだをお金のかわりにしてはいけない』という話が、うわさになってひろがったのです。
 うわさをしんじたりょうみん3000人が、宝暦(ほうれき)11年(1761年)11月9日、ぼうととなって柳川村の新助の家におしよせました。そして、家の中をあらすと、いきおいにのって彦根じょうに向かいました。
 明けて10日には、ぼうとが5万人にふくれあがって高宮口ご門(銀座(ぎんざ)土橋)にさしかかりました。はんではふせぐほうほうがなかったので、その日のうちにせきぎんを取りやめてぼうとをかいさんさせました。そしてひがいにあった新助には、家のしゅうぜんりょうをしはらいました。

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かい国のおん人     井伊直弼(いいなおすけ)

かい国ちょういん
 彦根じょうのだい十三代はんしゅ直弼(なおすけ)は彦根のすばらしいいじんであるばかりでなく、わが国にとってもかい国のおん人としてかがやかしいぎょうせきをのこしました。江戸(えど)時代のばくふはげんざいの東京にありましたが、さ国といって、当時の日本は長崎(ながさき)でオランダ・清国(しんこく)(=今の中国)とだけおつきあいをしていました。嘉永(かえい)3年(1850年)にあに直亮(なおあき)のあとをうけてはんしゅになった直弼は、外国の船がかい国をもとめてやってくるというので、相模国(さがみのくに)(=今の神奈川(かながわ)県)のけいびにあたりました。それから3年たった嘉永6年(1853年)にはアメリカのペリーていとくがやってきて、かい国をせまりました。ばくふではかい国すべきか、さ国をつづけるべきかとぎろんが分かれてなやみました。安政(あんせい)5年(1858年)にたいろうになった直弼は、しょうぐんのそうだん相手として、またさい高のせきにん者として、かい国をしゅちょうしたのですが、ちょうていでは反対者が多かったのです。なかなかかい港のちょっきょがでないうちに、直弼は日米修好通商条約(にちぃべいしゅうこうつうしょうじょうやく)にちょういんしました。つづいて、安政6年5月、露(ロシア)・仏(フランス)・英(イギリス)・蘭(オランダ)・米(アメリカ)に神奈川(かながわ)(=横浜(よこはま))・長崎(ながさき)・函館(はこだて)・新潟(にいがた)・兵庫(ひょうご)(=神戸(こうべ))の5港をひらきぼうえきをきょかし、イギリス・フランス・ロシアともじょうやくをむすびました。そのため、ちょうていや反対者はますますそんのう・じょういの運動をすすめ、直弼を悪くいいました。しかし、せきにんをとるかくごでかい国にふみきった直弼のおかげで、後進国だった日本が国さいてきに近代をむかえることができたのです。

埋木舎(うもれぎのや)
 直弼はだい十一代はんしゅ直中(ただなか)の十四男として、文化(ぶんか)12年(1815年)に彦根で生まれました。母はお富(とみ)の方といい、美人でけんぷ人だったので彦根御前(ひこねごぜん)といわれました。ようみょうを鉄之助(てつのすけ)といいました。兄の直亮がだい十二代のはんしゅになりましたが、長男の直元(なおもと)が早く死んだので、ししにもとめられ、直弼がだい十三代はんしゅになりました。直弼は年300ぴょうをもらって、つつましいしょうがいを送るはずだったので、そのじゅうきょを埋木舎としょうし、ぶんぶりょうどうを勉強しました。文では、国学・わか・はいく・さどう・かどう・ようきょく・らくやき・ぶつどう・天文数学と多ほうめんのきょうようを身につけました。また、ぶでは、へい学・そうじつ・きゅうじゅつ・ばじゅつ・いあいじゅつ・じゅうじつをおさめ、さらに海外じじょうにもねっしんにかんしんをもちました。うもれぎのや時代には国学の長野主膳(ながのしゅぜん)や清凉寺(せいりょうじ)の仙英(せんえい)らから教えを受けたといわれています。

桜田門(さくらだもん)外のへん
 たいろう井伊直弼の生活はたぼうでした。じょうやくちょういんのあと、しょうぐんのあとつぎ問題で頭をいためました。あいかわらず多くの反対があり、ふおんな行動のあった梅田雲浜(うめだうんぴん)を始め吉田松陰(よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らをとらえしょけいしました。有名な安政(あんせい)のたいごくです。ますます直弼に対する反対がはげしくなりました。ついに、安政7年(1860年)3月3日(3月18日、万延(まんえん)にかいげん)に、とじょうちゅうの直弼は水戸(みと)のろうしらによって、雪の桜田門外でしゅうげきされてたおれました。かしんたちはおどろき、ただちにお家だんぜつにならないように、かくほうめんへおねがいしました。さいわいばくふのはからいで、じけんはひみつのまましょりされ、3月28日に病死と発表されました。はかは東京都世田谷(せたがや)区の豪徳寺(ごうとくじ)にあります。直弼の死後、彦根は重苦しい毎日でしたが、後に、たいろう井伊直弼はさいひょうかされ、金亀公園(こんきこうえん)にどうぞうがたてられ、いろはまつのそばの護国(ごこく)神社のけいだいにはたいろうかひもできました。また、舟橋聖一(ふなはしせいいち)さくのしょうせつ『花のしょうがい』には、たいろう井伊直弼をかい国のおん人としてえがき、高くひょうかしています。

※梅田雲浜(1815年−1859年)は、ばくまつのそんのうじょういはのししで若狭(わかさ)(=今の福井(ふくい)県)小浜藩士(おばまはんし)。ばくふをひはんし、たいろう井伊直弼のはいせきをくわだてました。かいげんは、年号をあらためること。

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かげのたいろう     長野義言(ながのよしとき)

 義言(よしとき)(=主膳(しゅぜん))の父は、熊本藩(くまもとはん)のかろう松井智之(まついともゆき)の次男督之(とくゆき)で、母は同じくかろう三渕澄昭(みぶちすみあき)のむすめ数寿子(かずこ)といわれていますが、おさないときに神かんの長野家によう子に出ました。そして、13さいのときから、松坂(まつさか)(=三重(みえ)県)の本居春海(もとおりしゅうかい)のもとで国学を学びました。
天保(てんぽう)12年(1841年)11月、主膳が27さいのとき、近江(おうみ)の市場村(=今の山東町)でしじゅく高尚館(こうしょうかん)をひらき、か学を教えました。
 つぎの年、主膳の学問の深さに感心した井伊直弼(いいなおすけ)も入門してでしになりました。そして、嘉永(かえい)3年(1850年)に直弼がだい十三代はんしゅになると、はんこう弘道館(こうどうかん)の国学寮学頭(こくがくりょうがくとう)にえらばれ、直弼がたいろうになると江戸(えど)で直弼のせいじを助けてかつやくしました。とくに、ばくふとちょうていの間に立って意見のちょうせいにくろうしました。
 直弼が桜田門(さくらだもん)外でたおれるとすぐ彦根のごくにとらえられ、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)8月にごくしゃでしけいになりました。49さいでした。

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たいろう直弼(なおすけ)のふくしん     宇津木六之亟景義(うつぎろくのじょうかげよし)

 六之亟(ろくのじょう)は文化(ぶんか)6年(1809年)古澤(ふるさわ)家に生まれ、ようみょうを留吉(とめきち)といいました。13さいのとき、宇津木六之亟景俊(うつぎろくのじょうかげとし)のよう子になり、稽古館(けいこかん)(=後の弘道館(こうどうかん))でぶんぶを学びました。19さいで江戸(えど)に出て、はんしゅ直亮(なおあき)のもとでつとめにはげみながら、しやわかの勉強にもど力しました。そのころ浦賀(うらが)には外国の船が来港して、さかんにかい国をせまっていたので、ばくふは相模湾(さがみわん)いったいのぼうびをかためるため、彦根はんなど、多くのはんにけいびを命じました。六之亟も、弘化(こうか)3年(1846年)に、てっぽうがしらとしてけいびにあたり大ほうをつくりました。
 直弼がたいろうになると、直弼の考えをじつげんさせるため、長野主膳(しゅぜん)と力を合わせてはげみました。しかし、桜田門(さくらだもん)外のへんで直弼がたおれた後は、彦根のごくで、文久(ぶんきゅう)2年(1862年)しょけいされました。54さいでした。

   「つきかげの更行(ふけゆく)まゝに 身にしみて
      氷ると見ゆる せりの河水(かわみず)」

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はんのききをすくったかろう     岡本半介(おかもとはんすけ)

半介(はんすけ)のりゃくれき
 半介は、宇津木兵庫久純(うつぎひょうごひさずみ)の三男として文化(ぶんか)8年(1811年)に生まれ、名を宣迪(のぶみち)(=つうしょう 留弥(とめや)) 後に織部之介(おりべのすけ)、そして、半介(はんすけ)とあらためました。文政(ぶんせい)5年(1822年)に、岡本織部祐(おかもとおりべのすけ)のよう子になって、950こくのかとくをそうぞくし、20き一そなえ小手がしらの役を命じられました。さらに、天保(てんぽう)7年(1836年)におちゅうろう、弘化(こうか)2年(1845年)に弘道館(こうどうかん)のとうどり、嘉永(かえい)4年(1851年)には、かろうかくに進みました。

桜田門(さくらだもん)外のひほう
 はんしゅ直弼(なおすけ)がたいろうとして江戸(えど)にいる間、かろうを助けて彦根はんのせいじをしていた半介は、直弼からたいへんしんらいされていました。それで、直弼がはんしゅになってはじめててんしゅかくに登ったとき、そこでこうぎを聞かせているほどです。
岡本(おかもと)家は、ひょうほう家の家がらでしたから、はんではさんぼうかんでした。そのため半介は、おさないころからぐん学を勉強しました。しかし、じゅ学やし学にも深いかんしんをもっていたので、京都の梁川星厳(やながわせいがん)に学んで、多くのしをつくり書もたいへん上手でした。
 そのころ日本の国では、嘉永(かえい)6年(1853年)ペリーが浦賀(うらが)に来港し、安政(あんせい)4年(1857年)ハリスがしょうぐんに会うなど、外国の国々がかい国をもとめてきました。そこで、たいろう井伊直弼(いいなおすけ)は安政5年の春、つうしょうじょうやくのちょういんについててんのうの考えをうかがうため、ろうじゅう堀田備中守(ほったびっちゅうのかみ)を京都に上らせました。これを知ったじょういろん者は、てんのうのめいれいが出ないように手をつくしてぼうがいしました。
 半介は、直弼の立場を心配して、じょういろん者であった星厳に意見を聞きました。そして、安政5年3月に意見書をまとめて直弼のもとに送りました。それには、水戸藩(みとはん)となかよくしてかい国をしないように書いていました。これを読んだ直弼は、半介が星厳の教えにとらわれて、世界のようすや日本の国のことがわからなくなっているのを知って、長野主膳(しゅぜん)に、半介が考えをかえるようせっとくさせました。
 万延(まんえん)元年(1860年)直弼が桜田門外で水戸(みと)ろうしにあんさつされたことを聞くと、半介はなみだを流して悲しみました。

彦根のきき
 はんしゅ直弼があんさつされた知らせが彦根に着くと、じょう下では大へんなさわぎになりました。かしんの中には、水戸はんとたたかいをしてでも直弼のうらみをはらそうとする意見も出ました。また、そんのうじょういはが彦根におしよせてくるといううわさが流れて、りょうみんはふあんな毎日を送りました。
 じょう中では、かろうの木俣清左衛門(きまたせいざえもん)・庵原助右衛門(いはらすけえもん)に反対する者や、長野主膳や宇津木六之亟(うつぎろくのじょう)にはんこうする意見が集中したので、半介がしゅせきかろうになりました。
 半介は、だい十四代はんしゅ直憲(なおのり)を助けて、じょういはのしゅちょうを取り入れながら、彦根はんの意見をまとめていきました。そして、ばくふから京都しゅごの大役を取りあげられさらに10万ごくをへらされる中で、河上吉太郎(かわかみよしたろう)・北川徳之允(きたがわとくのじょう)・外村省吾(とのむらしょうご)らをともなって京都に行きはんのじょうきょうをうったえるなど、さびれる彦根を一心に守りました。
 慶応(けいおう)元年(1865年)井伊直憲(いいなおのり)は、ばくふから長州(ちょうしゅう)せいばつを命じられたので、半介もしゅつじんして彦根はんのぶゆうのためにどりょくしました。明治(めいじ)元年(1867年)3月、いんきょして名を石上ゆうさいとしょうし、さらに岡本黄石(おかもとこうせき)にあらためました。はいはんの後、東京にいじゅうして、文人とこうゆうしながら、しや書をかいてよせいを送りました。明治31年(1898年)4月12日、88さいでなくなりました。

※長州せいばつは江戸ばくふと長州(ちょうしゅう)はん(山口県萩(はぎ)市)とのたたかい。
きん門のへんで長州ぐんがこうきょ(京都)にはっぽうしたことから、長州はんついとうのめいれいがばくふに下りました。

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彦根はんの外こうを引き受けた     谷鉄臣(たにてっしん)

学問の道へ
 鉄臣(てっしん)は文政(ぶんせい)5年(1822年)に、京町三丁目で渋谷(しぶや)家の長男として生まれました。名を騮太郎(りゅうたろう)といいました。父親がごてんいをつとめていたので、おさないころから学問がすきでした。17さいのときから、彦根へ帰ってくる27さいまで、10年い上を江戸(えど)、東北、越後(えちご)、長崎(ながさき)とうつりながら、じゅ学やらん学(オランダからつたわった医学)を、はば広く学んできました。そして、父が病気になったので、父親の後をついで医者になり、滋賀(しが)県でははじめてという種痘(しゅとう)のぎほうを広めました。

ばくまつのあんうんの中で
 万延(まんえん)元年(1860年)彦根はんしゅでたいろうであった井伊直弼(いいなおすけ)が水戸(みと)ろうしにうたれてから、彦根の様子はいっぺんしました。それと同時に騮太郎の運命も大きくかわっていくことになりました。騮太郎38さいの時です。なにしろ徳川(とくがわ)してんのうひっとうのお家の一大事です。十四代はんしゅ直憲(なおのり)はきんしんさせられ、ろく高は10万ごくをけずられ、その上京都しゅごをとかれるという、様々な仕打ちを受けました。当時、徳川ばくふはかく大名をおさえる力が弱まっている上に、外国(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ)のために国をひらかねばならなくなりました。そんなとき、しょうぐんをささえるもっとも近い所にいてかつやくしていた直弼が、思いもかけぬさいごをとげたのです。そのばくふからいろいろな仕打ちを受けた彦根はんがどんな動きをするのか、ばくふをたおそうと力を強めていた薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)・土佐(とさ)などのぶしたちは、様子を探るためにつぎつぎと彦根に近づきました。
 騮太郎が、こうした世の中の動きの中で、はんしゅから(とくにかろう岡本半介(おかもとはんすけ)の強い意見で)みとめられたのです。わかいときから学問の道をもとめてきたそのはくしきが、彦根はんのききをすくうのにひつようになってきたのです。時代の流れは急速に新しいせいじのたいせいをもとめていました。そこで、もはや徳川ばくふが日本国中をおさめるという形がくずれかけていることを、彦根はんもみとめていくことに、意見がまとめられていきました。
 騮太郎ほか3名が彦根はんのまどぐちがかり(たしょむきごようがかり)として、伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(かおる)、谷干城(たにたてき)らと面会し、はんの考えを知らせるとともに、同じ考えできょう力しあうことをやくそくしました。大切な話し合いがたびたび持たれた所が、渋谷(しぶや)家の一室でした。そのため医者の仕事がおろそかになってきたので、そのほとんどを弟の周平(しゅうへい)にまかせました。

彦根から京都へ
 明治(めいじ)の時代になって、自ら名前をかえました。始めは谷退一としましたが、のち鉄臣(てっしん)にしました。明治せいふのやくしょくについてかつやくする間にも、彦根はんのゆくすえを心配し、せいふのじゅうような人物ともこうしょうを重ねたようです。明治8年(1875年)53さいの時には、家を弟にまかせて京都に出ました。医者の仕事もふっかつするかたわら、漢しや書道など、ひぼんなさいのうを大きく花ひらかせ如意山人(にょいさんじん)のごうももちました。
 明治31年(1898年)には彦根の知人友人たちが楽々園(らくらくえん)にまねいてきじゅのいわいを行いましたが、7年後、84さいでなくなりました。ちょっけいのしそんはなく、京都西加茂(にしかも)にふうふのはかがのこるだけです。

※伊藤博文(1841年−1909年)は長州はんの出身で吉田松陰(しょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で学び、後にしょだいのそうりだいじんになる。ハルピンえきであんさつされた。

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米惣(こめそう)そうどう     沢田惣七(さわだそうしち)

 明治(めいじ)3年(1870年)は、彦根がはんとしてのさいごの年です。この年の夏は、あくてんこうつづきで作物にひがいが出ました。そのうえ米ぶそくで、米のねが高くなるばかりでした。そのためりょうみんの生活が苦しくなってきました。そんなとき、9月18日の夜に台風がおそって犬上川のていぼうがけっかいし、高宮をはじめ近くの家々が137戸もおしながされました。ふあんになったりょうみんは、おびえながら「大風におそわれたのは、霊仙(りょうぜん)山の池のりゅうがおこったからだ、りゅうをいからせたのは、小川町(京町2丁目)の米や惣七(そうしち)が、池におぶつをなげこんだからだ……。それも、米のねをつりあげて金もうけをたくらんだからにちがいない。」と、口々にうわさをしました。
 うわさをしんじたりょうみん数百人が、手に手にくわやぼうなどを持って高宮口ご門をきょうこうとっぱするや、惣七の店におしかけて、家やかざいどうぐを打ちこわしました。しゅうげきを知った惣七は、すでにすがたをかくしていたのでぶじでしたが、彦根の土地をあきらめて北海道へ行きました。
 惣七が霊仙山の池におぶつをなげこんだ話は、ばくまつのふあんな世の中にいらだっていた人のつくり話がもとになったことがわかって、はんにんはとらえられ、四十九町(城町(しろまち)2丁目)のごくしゃでしけいになりました。また、そうどうをやめさせることができなかった高宮のそうだいもばつを受けました。

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県ちょうを彦根へ     浅見竹太郎(あさみたけたろう)

県ちょういてんを
 明治(めいじ)4年(1871年)はいはんち県によって近江(おうみ)の国は、彦根県や大津(おおつ)県などにわかれ、さらに大津県・長浜(ながはま)県にまとめられ、明治5年に滋賀(しが)県としてたんじょうしました。このときから、県ちょうを彦根におきたいという考えがありましたが、彦根の人々は、この考えに反対しました。そこで、県ちょうを大津の三井寺円満院(えんまんいん)において松田道之(まつだみちゆき)がけんれい(知事)になりました。
 明治21年(1888年)レンガづくり2かいだてのモダンなちょうしゃが、大津えきの近くにらくせいしました。ところが、年ごとにさびれていく彦根を悲しく思う人々は、彦根しゅっしんの県会ぎいん浅見竹太郎(あさみたけたろう)・中村一蔵(いちぞう)らときょう力して、県ちょうを彦根にうつす相談をしました。そして、近くの村や町からせんしゅつされているぎいんによびかけてさんせいをもとめました。そこで、八日市出身の磯野亀吉(いそのかめきち)が代表者になって、県ちょうを彦根にうつすぎあんを県会にていしゅつすることになりました。

いてん決まる
 明治24年(1891年)には、大津じけんや濃尾(のうび)じしんが起こって滋賀県民は大さわぎでした。こうしたなかで、12月16日県ぎ会さいごの日に、磯野ぎいんによって出されたぎあんが、しんぎされることになりました。
 さんせいだ、いや反対だとぎ会はそうぜんとなりましたが、さいけつのけっか、20対15で県ちょうを彦根にうつすことが決まりました。おどろいた大津しゅっしんのぎいんは、夜おそくまで相談して、つぎの17日にりんじの県ぎ会をひらくようぎちょうにようきゅうしました。そして、21日に、県ちょうを彦根にうつすことを取り消すぎあんを出しました。するとぎ会は前にもましてだいこんらんとなり、ぼうちょうせきもまんいんでやじがとびみだれ、県ちょうのまわりには、さんせいははんたいはの県民であふれました。まさに滋賀県が2つに分かれて、てんやわんやの大さわぎになりました。

二てん三てん
 一週間にわたってろんせんがつづきましたが、こんどは、18対8で県ちょうを彦根にいてんしないというあんをぎけつすると、大越(おおごし)知事はただちにぎ会を中止してしまいました。
 これにふんがいした彦根はのぎいんは、浅見竹太郎を代表に東京へ行って内むだいじんにじじょうを話しました。じたいを重くみただいじんは、知事に県ぎ会をひらくよう命じたので、ふたたびいてんもんだいが話し合われることになりました。
 こんどは、県ちょういてんの取り消しを取り消すというおかしなあんがぎけつされて、県ちょうを彦根にうつすことが正式に決まりました。ところが、これにおこった知事は、ふたたびぎ会を中止しました。そこで内むだいじんは、やむをえず滋賀県ぎ会をかいさんするめいれいを出してぎいんのせんきょをやりなおしたので、いてんもんだいは消えてしまいました。

竹太郎のりゃくれき
 県ちょういてんもんだいでだいかつやくした竹太郎は、安政(あんせい)6年(1859年)下やぶ下町(=今の城(しろ)町1丁目)で、父繁蔵(しげぞう)・母美尾(みお)の長男として生まれました。家は200こく取りで、代々てっぽうぶぎょうなどのやくづきでした。竹太郎は、おさなないときから弘道館(こうどうかん)に学びましたが、はいはんち県が行われてからはどく学で代言人(べんごし)のしけんにごうかくし、代言人をつとめていました。竹太郎は、もって生まれたせいぎかんから、さびれる彦根をたてなおすため、町会ぎいん・県会ぎいん・しゅうぎ院ぎいんになって、彦根のためにど力しました。その間、大東義徹(おおひがしよしあきら)や尾崎行雄(おざきゆきお)とも親交を深めました。また、いそがしい仕事の中で、親こうこうの道にはげんだことは語りぐさになっています。

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彦根市たんじょう     堀勘治郎(ほりかんじろう)

市せいしゅくがかい
 
昭和12年(1937年)2月11日、彦根町、松原(まつばら)村、北青柳(きたあおやぎ)村、青波村、千本(ちもと)村、福満(ふくみつ)村ががっぺいして、人口3万9300人、せたいすう7520この彦根市がたんじょうしました。
3月1日には、市せいをいわって東小学校(今の城東(じょうとう)小)のこうどうでしゅくがしきがひらかれ、3日間にわたるしゅくがぎょうじも行われました。しゅくがぎょうじは、しろ山から打ちあげられた花火とともに、6000人の子どもたちが、しゅくがうたをうたいながら手に手に小ばたをふって市中を行進しました。また、市内には山車(だし)がねり歩き、おどりの列がくり出され、市民そうでで市せいしこうをいわいました。
 彦根が市せいをしこうするあんは、明治(めいじ)21年(1888年)弘世助三郎(ひろせすけさぶろう)を代表に、県知事へねがいを出したときに始まります。つぎに、明治42年(1909年)にもねがいを出しましたがじつげんしませんでした。そして、昭和12年、ついに彦根町民のねんがんがじつげんしたのです。

北青柳村の村長
 
北青柳村の村長堀勘治郎(ほりかんじろう)は、明治6年(1873年)勘平(かんぺい)の長男として、北青柳村(きたあおやぎむら)(今の大藪(おおやぶ)町に生まれました。父は、勘治郎をりっぱな人に育てようと考え、学問のたいせつさを教えました。勉強ずきだった勘治郎は、彦根中学校(今の彦根東高とう学校)からだい二高とう学校(今の東北大学)にすすみ、東京大学どくほうかでほうりつの勉強をしました。明治35年(1902年)に大学をそつぎょうすると、しほうかんをこころざして岐阜(ぎふ)や姫路(ひめじ)のさいばん所でけんじとしてかつやくしました。
 明治41年(1908年)ちょうせんへわたって、かく地のさいばん所でけんじをれきにんしましたが、昭和4年(1929年)には、朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)けんじそうちょうをさいごにたいかんしました。
北青柳村に帰った勘治郎は、村の人々から村長におされました。そこで、こんどは村のぎょうせいにわがみをわすれてど力しました。さらに、りん村の人々ともこう流を深めて、北青柳村のためにつくしました。
 昭和12年いよいよきんりんの村が彦根町とがっぺいして彦根市をつくりたいという気運が高まると、勘治郎は、北青柳村のぎ会や村民によびかけて、がっぺいにさんせいするようもとめました。しかし、市がい地とのう村地いきとではりえきにちがいがある、という反対意見もあって、せっとくにくろうしました。

ひげの堀勘(ほりかん)さん
 
市せいがしこうされると3月30日にははつの市会ぎいんせんきょが行われました。勘治郎はじょういでとうせんし、さっそくしょだいのぎちょうにえらばれました。その後、昭和20年(1945年)4月18日までの8年間、市会ぎちょうとして多くのむずかしい問題をかいけつしました。それは、おりしも第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)のさ中でぶっしがふそくして、市民の生活が苦しくなるばかりでしたから、ぎちょうとしての仕事も大へんでした。
 勘治郎は、しょだい市長木島茂(きじましげる)・二代市長松山藤太郎(まつやまとうたろう)のもとでくなんのときでも、白はつでいげんのある顔に八の字ひげをたくわえた、みるからにいかめしいすがたでしたがわらいとあいきょうをわすれず市せいにつくしたので、ひげの堀勘さんとよばれ市民に親しまれました。
 昭和20年3月の市ぎ会は、まんじょういっちで勘治郎を三代彦根市長にすいせんしぎけつしました。しかし、市長にしゅうにんしたよく日、かぜが悪化してきゅうせいはいえんになり、わずか2日間の市長として74さいでなくなりました。

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