彦根のあけぼの     古代の人々

じょうもん時代
 彦根と米原(まいばら)のさかいに磯山(いそやま)があります。そのふもとを流れている矢倉川(やぐらがわ)のほとりで、昭和20年ごろ松原内湖(まつばらないこ)をかんたくしているとき、磯崎文五郎(いそざきぶんごろう)は、たくさんのかめ形どきのはへんを発見しました。どきのはへんは見ばえのしないそまつなものでしたが、じょうもん時代の終わりごろに作られたどきでした。そこで、彦根ちほうにも古くから人々が住んでいたことがわかりました。また昭和59年に、磯山でじょうもん人のほねが発見されて話題になりました。
やよい時代
 磯崎文五郎は、矢倉遺跡(やぐらいせき)を調べているうちに、やよい時代のどきのはへんも発見しました。このことから、矢倉川のあたりでは、早くから水田が開かれていて、秋の取り入れにはいしかまでいなほをかる古代人のすがたがそうぞうできます。
 また大正7年(1918年)に、城南小学校(じょうなんしょうがっこう)ふきんの水田(深さやく1メートル)から、やよい時代のどきが2こ発見されたので、このあたりにも大きな集落があって、多くの人々が生活していたことがわかりました。
 さらに、昭和61年には、城南保育園(じょうなんほいくえん)の園庭から、平安時代のはじめごろと思われるじゅうきょあとが発見されて、彦根の土地を開いた大昔の人々のくらしが、少しずつわかってきました。

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ちょうじゃやしき

 藤原(ふじわらの)淡海公(たんかいこう)(不比等(ふひと))は、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の子ですが、近江(おうみ)の国の太守(たいしゅ)(領主(りょうしゅ))とほくりくどうじゅんさつしににんぜられていたとき、彦根(芹川町(せりがわちょう))にやしきがあったとつたえられています。なお、佐和山(さわやま)は父鎌足(かまたり)のぼしょである明日香(あすか)の佐保山(さほやま)になぞられて、不比等(ふひと)が名づけたそうです。

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彦根寺のかんのんさま     扶桑略記(ふそうりゃくき)

 承暦(じょうりゃく)3年(1079年)摂津(せっつ)の国(大阪府(おおさかふ))に住んでいた沙門徳満(しゃもんとくまん)は、20さいのころりょう目が見えなくなりました。そこで、何とかして病をなおそうと思い、京都の鞍馬(くらま)寺におまいりして「目が見えますように。」おいのりをしました。でも病はなおりませんでした。
 次に、奈良(なら)の長谷(はせ)寺におまいりしました。長谷寺でおいのりをつづけてから7日目の夜、ゆめの中にふしぎなおきながあらわれて言いました。
 「徳満(とくまん)よ、ざんねんだがわしの力ではお前の目をなおすことができない。それで、近江(おうみ)の彦根山西寺のかんのん様におねがいしなさい。3日のうちにお前の目が見えるようになるだろう。」
 徳満が、彦根寺のかんのんさまにいっしょうけんめいおねがいすると、3日目の朝、ゆめのおつげどおりに目が見えるようになりました。あまりのふしぎさにかんげきした徳満は、そうになってかんのんさまをお守りしました。
 徳満の話がつたわると、かんのんさまのひょうばんが広がって、おまいりの行列がつづきました。そして、白川上皇(しらかわじょうこう)も多くのきぞくとともにさんけいしました。

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佐和山城(さわやまじょう)のえんじょう

 文禄(ぶんろく)4年(1595年)8月に、石田三成(いしだみつなり)は水口城(みなくちじょう)4万ごくの大名から天下のようちとして知られた佐和山城20万3200こくのりょうしゅとしてうつってきました。三成(みつなり)はさっそくしろをきずきなおして、ちょうじょうに5そうのてんしゅかくをたて、天下のめいじょうにしたと言われています。そして、松原内湖(まつばらないこ)にぐんせんをうかべて湖上の守りをかためました。
 慶長(けいちょう)5年(1600年)9月15日、徳川家康(とくがわいえやす)の東ぐん7万5000と三成の西ぐん8万2000のぐんぜいが、関ヶ原(せきがはら)(岐阜(ぎふ)県)で天下分け目のけっせんをしました。午前中は西ぐんがゆうせいでしたが、午後にはそうくずれになりました。
 いきおいにのった徳川がたは、その日のうちに井伊直政(いいなおまさ)をたいしょうに、1万5000のぐんぜいで三成の父正継(まさつぐ)と兄の正澄(まさずみ)が守る佐和山城をせめました。しろは、3日間のいくささでついにえんじょうしました。

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彦根城(ひこねじょう)ちくじょう     淡海落穂集中巻(おおみおちぼしゅうちゅうかん)

 直勝(なおかつ)公(井伊直継(なおつぐ)のこと)彦根山におしろおきずきに決まりそうろうとき、お山にありしじんじゃぶっかくを、外へしりぞけられしとき、いろいろへんもあり。されども、おかまいなくおきずきあり。
 ごじょうかできしとき、これまでの村方をつぶされ、あるいはみずべへつかわされしゆえ、じんみんはなはだこんらんありしことなり。芹川(せりがわ)おつけかえあそばされ、その上、ごじょうかとなりしわけは、田畑お取り上げにつき、町人となりし者だいぶこれあり。それまでは、よろしく田畑を所持いたしており、この場所のよき者どもへ、かえ地あそばされしとて、いたってよろしからざるところ、わたり百姓(ひゃくしょう)ども、いろいろとぶぎょうにんとやかましくろんじたるよし、もっともなことどもなり。(りゃく)


 佐和山城(さわやまじょう)をはいじょうにして新しく彦根山にしろをきずきなおすめいれいが徳川家康(とくがわいえやす)から出されると、直政(なおまさ)の子直継(なおつぐ)は、さっそく大工事にとりかかりました。そのとき、きんりんの7か国12大名が、手分けをしてちくじょうこうじをてつだいました。
 第一期工事は、慶長(けいちょう)8年(1603年)から慶長11年の4年間でしたが、この間に大津城(おおつじょう)・小谷城(おだにじょう)・長浜城(ながはまじょう)・佐和山城(さわやまじょう)・安土城(あづちじょう)などから、てんしゅかくをはじめ多くのやぐらやいしがきをうつしかえてたてなおしました。
 次に、芹川(せりかわ)の流れをかえたり、村々をいてんさせてじょうかまちづくりをした二期工事が、元和(げんな)8年(1622年)に終わりました。こうして、彦根の町づくりはやく20年間かかりました。

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彦根くうしゅう

 主人と田植えのあとしまつをしていると、とつぜんものすごい音がして、城南国民学校(じょうなんこくみんがっこう)のあたりからけむりがあがりました。何が起こったのかわからないまま、わたしはとっさに「かわいそうに、明日から子どもたちは学校へ行けへんがな。」と思いながら、主人とべつべつな場所にひなんしました。それは親が二人とも死んでは家の子がかわいそうだと考えたからです。
 これは、べいぐんのひこうきが学校をぐんじゅ工場とまちがえてばくだんを投下したとのことでした。ばくだんは、巡礼街道(じゅんれいかいどう)ほうめんから学校をめがけていくつも投下されたため、野瀬(のせ)や西今(にしいま)ふきんの人が何人もぎせいになってしぼうしました。
 ばくだんが投下されたあとに大きなあながあいて、10年ほどたってもちょっけい15メートルぐらいのあなに水がたまっていました。幸い学校はこうしゃの一部がばくふうではそんしただけで、かさいにはなりませんでした。(原文のまま)

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)
 『昭和20年(1945年)6月26日、午前9時48分ころ、北西からひらいしたB29一きが、こうしゃの北方やく50メートルの地点に、大・中ばくだん10発あまりを投下した。そのためきたこうしゃがたいは、こうどう・みなみこうしゃ・本館などが中破した。使用できる教室はなし……また、いっぱん市民のひがいは、ふきんの家屋および死者8人、ふしょう12人であった。
じどうは、くうしゅうけいほうがはつれいされたので一校時しゅうりょうご、きたくさせひがいなし』
(城南小学校(じょうなんしょうがっこう) こうむにっし)
 彦根では、このほかしゅうげきやきじゅうそうしゃが数回あったが、いずれもひがいは少なかった。

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彦根しみんの歌が決まる

彦根しみんの歌

1.朝日かげ かがよう波に 明けわたる 琵琶(びわ)の湖(みずうみ)

新生(しんせい)の いぶきさやかに うるわしき文化の都

ああ清(きよ)しわれらの彦根

2.遙(はる)かなる 伊吹(いぶき)の高嶺(たかね) 山脈(やまなみ)の みどり明るく

若き(わかき)陽は 街(まち)に溢(あふ)れて 人の和に 栄(さか)える都

ああたのしわれらの彦根

3.とこしえの 世紀(せいき)にかおる 井伊(いい)の城(しろ) 仰(あお)ぐあけくれ

幸福(しあわせ)を 共(とも)に築(きず)きて 月に日に伸(の)びゆく都

ああうれしわれらの彦根

 かしはこうはんいにぼしゅうされ,かくちよりおうぼすう193へん。当時の滋賀大学(しがだいがく)杉本(すぎもと)じょきょうじゅ 外8名でしんさ,そのけっか三重県度会郡大宮町滝原(みえけんわたらいぐんおおみやちょうたきはら) 奥山平吉(おくやまへいきち)し(当時71才)がにゅうせん。
 作曲は大阪帝塚山学院大学(おおさかてづかやまがくいんだいがく) 川澄健一(かわすみけんいち)きょうじゅ(当時)

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