社会じぎょうに力をつくす     蒲池一義(かまちいちぎ)

わしらの寺
 「おい、ごえんさんは、まだ来られんのか。」「もうみんなが集まって、待っているというのに。」
 ほうじに集まった村人たちは、さっきから首を長くしてとなり村のそうりょが来るのを待っていました。
 普賢寺(ふげんじ)村には昔からお寺がなかったので、ぶつじほうようには手つぎ寺のじゅうしょくにそのつど人力車でしゅっちょうしてもらいました。ところが、遠くからわざわざ来てもらうのでひようがかさむ上、いろいろとふべんなことがありました。なにしろ、心のささえをもとめる村の人々にとって、自分たちの近くにお寺がないということは、この上もなく心さびしいことでした。「わしらの村にもお寺がほしい。いつでも気軽におまいりしてくれるおしょうさんがほしい。」というのが、村人たちの長い間のねがいでした。

寺ができた
 大正11年(1922年)全国水平社のぶらくかいほうにしげきされて、京都の本願寺(ほんがんじ)では、武内了温(たけうちりょうおん)のしどうでかいほううんどうに力を入れていました。広野(こうの)村の人々はさっそく本願寺(ほんがんじ)へそうりょのはけんをいらいしました。この時やってきたのが、本願寺でしゅぎょうをつんでいた蒲池一義(かまちいちぎ)でした。一義は普賢寺の道場に落ち着くとれん日れんやおまいりにはげむ一方、村人に「人間はみな平等であり、いわれなきさべつにあまんじているのはまちがっていること」をときながら、村人と一しょにさべつもんだいのかいけつにど力しました。また、人々の生活を少しでも助けるために、農はんきにはたくじ所を開いて子どもをあずかったり、苦しい家計のために学校へ通えない子どもたちを集めて日曜学校を開いたり、さいほうを教えたりしていました。
 一義は、地いきの人々と、じょうせつたくじしょ・図書館・会ぎしつなどのせつびをもった寺のけんせつについて、相談をくり返しました。そのねついにうたれて、土地のていきょうを申し出る人があらわれ、ついに昭和6年(1931年)河瀬村善隣館(かわせむらぜんりんかん)がけんせつされることになりました。村人は、土地のうめ立てに使う土しゃを運ぶ仕事に、おいもわかきもこぞってさんかしました。日曜学校で学ぶおさない子どもまでがもっこで土しゃをかつぎました。人々の長い間のねがいだったお寺が、一義のねついあふれるしどうと、とうといぼ金とあせ、国からのほじょ金によりついにかんせいしたのです。(しゅうせんの時に土地の名「普賢寺村」にちなんで真宗大谷派紫雲山普賢寺(しんしゅうおおたにはしうんさんふげんじ)となる)。

村人にささげた一生
 善隣館そうりつと同時にほいくじぎょう(日本のほいくじぎょうの中でももっともれきしが古くかがやかしいじっせきをもっている)が始められました。一義は、つねに「平等であるべき人間のそんげん」についてとき、「大切な人生にくいをのこさぬよう人生へのいよくをもやす」ように、身をもって教えました。もらった「おふせ」はみんなほいくじぎょうに使い、いっさいほいくりょうを受け取りませんでした。また、土地の米屋にお金をあずけて、食うにこまる人がいたら、そっと米をわたしてやるようにたのんだりもしました。
 昭和39年(1964年)3月10日、40年間も住みなれたこの土地で、おたいやまいりの帰り道、のうそっちゅうでたおれ、ついに帰らぬ人となりました。村人たちは、自分の親をうしなったように悲しみました。こうして一義は、かいほううんどうとぶっきょうのでんどう一すじにはげんで、76年のしょうがいをとじたのです。

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荒神山(こうじんやま)を緑の山に     大橋利左衛門(おおはしりざえもん)

あれはてた荒神山
 彦根市日夏町宇曽川(うそがわ)のほとりにそびえる荒神山は、いぜんから「こうじんさん」「おこうじんさん」と親しまれて、しきおりおりのへんかが、わたしたちの心をなごませてくれます。また、山ちょうから見わたすあおい「琵琶湖(びわこ)」、そしてがんかにひろがる彦根の町はすばらしいながめです。
 しかし、荒神山も明治(めいじ)のはじめごろはすごくあれはてた山だったのです。今から100年ほど前の日夏村(=今の日夏町)はざいせいが苦しくまずしい村でした。村人たちはいろいろ考えたすえ、荒神山の木を切り、これを売ってざいせいをたてなおすことにしたのです。人々はわれ先にと木を切る、切る木がなくなると、木の根までほりおこしてまきにして売ることまでしました。一時はこれでしのげたのですが、悲しいことには、さすがの荒神山も280万歩(933ヘクタール)におよぶ全山がまるはだかとなり、大雨がふると山はだはあれ、いたるところ土しゃくずれがおこって、みるもなさけないすがたの山になったのです。村人たちは「こまったことだ」となげきましたが、もとの緑の山にもどそうとする人もなく、長い年月がたちました。
 ところが、「これではだめだ。なんとかしよう。」といつも山を見上げ、心をいためていた青年がいました。この青年こそ、荒神山に緑をとりもどすことを考え、人の先にたって実行した大橋利左衛門でした。

荒神山を緑に
 利左衛門は、明治11年(1878年)5月、20さいで日夏村(=今の日夏町寺村)の区長、つづいてこちょう(いくつかの村のまとめ役)にえらばれました。さっそく、荒神山の一部を村のざいさんにしようと考えた利左衛門は、「今のままの山ではだめだ、木を切ったらすぐそのあとへ木を植えなければ、ますますあれほうだい、それにさいがいでもおこればよけいびんぼうになってしまう。」と、植林の大切さをくりかえしくりかえしときました。村人たちは、「なえぎを買うお金はどうする」「そんな仕事をしていては田や畑の仕事ができない。」などと言って利左衛門の考えにさんせいしてくれませんでした。だが、利左衛門はあきらめず、自分の考えは正しい、いずれ村人もわかってくれる時がくるとしんじて、ぞうりんの仕事をはじめました。
 村人たちには山林を守るためのやくそくごとをしめし、山にかんし人をおき山林のほごにつとめ、自分自身は雨の日も風の日も休まず、少しずつ植えたなえぎを見回りそのせいいくにしんけつをそそぎました。やがてこれをみた村人たちもそのじょうねつに動かされ、利左衛門さんにつづこうときょうりょくする人がふえてきました。そのかいあって年月がたつにつれて荒神山の緑もいちだんとこくなってきたのです。
 さらに利左衛門は村の道路作りに力を入れたので、今も日夏かい道の名がのこっています。
 村人たちは、こうした利左衛門のいぎょうをいつまでもたたえようと昭和37年の夏、荒神山のふもとにけんしょうひをたてました。

※けんしょうひは生前のぎょうせきを世の人々に広く知らせひをたててひょうしょうすること。

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村をすくった     渡善弥(わたりぜんや)

 松原(まつばら)湖岸に面した土地は、大正のはじめごろまでは、小石のごろごろしたすなちでしたのでやさいのかわりに、くわやあいをさいばいしていました。また、ぬま地のような田は、雨がつづくと水をかぶり米はとれませんでした。村人のなかには、少しでもよい土地をもとめて大藪(おおやぶ)や遠くは八坂まで出作(でさく)する人や、ぎょ業をけんぎょうする人もいましたが、そんみんの生活は決してゆたかではありませんでした。
 犬上ぐん会ぎいんであった渡善弥は、村人の生活をゆたかにするには、こう地を整理する(土地をならし、用水・はいすいをよくする。区画を整理して土地をこうかんし合い農家ごとに田畑を一か所に集める。)いがいにほうほうがないと考えました。さらに、そのころは、田仕事のいきかえりには、ふねを使わなければならないほどふべんでした。
 善弥は、農民たちを松原寺(しょうげんじ)の本どうに集めこのことを話しました。よい土地を持っている人々、すな地や石ころの多い土地やぬま地を持っている人々、高い土地を持っている人々と低い土地を持っている人々とでは考え方がちがい、会場はどよめいて、多くの反対者がいました。せつめいしてもさんせいしてくれない人々には、がまん強くせっとくしつづけました。
 「わたしの田はすな地です。しかしすな地はわたしの田だけではありません。そこのないぬま地もあるでしょう。よい田を持っている人も雨がふったら水につかり、ひでりがつづけば水あらそいを、毎年くり返しているのです。この悪じょうけんをとりのぞくにはこう地を整理してよい田にしなければ,松原の人々の生活をすくうことはできないのです。みなさん、こう地を整理して分配するとき、一番悪いと思う田をこのわたしにわりあててもらえばまんぞくです。みなさんがよいと思うところをとったのこりでよろしい。村の生活をすくうためです。しそんのためにも、今この事業をかんせいしようではありませんか。」と、なみだながらに力強く訴えたのでした。
 善弥の村を思うせいいと、火をはくようなねついは村人たちの心を動かしました。人々は、善弥をしんじてこう地整理にさんせいしました。だい一次を明治40年(1907年)に、だい二次を大正3年(1914年)に、その後、わずかながらもだい三次まで行われ、合計やく800たん(やく79万3300平方メートル)のこうちせいりが人力によってかんせいしました。
 地ならしには、はまがわの高いところの土しゃを低地に運んで行いましたが、土しゃのふそくから低地の一部はそのままのこりました。善弥は、この土地をすすんで自分にわりあてました。その後8年のさいげつをかけ、近所の人にもてつだってもらって土を運びつづけました。
 こう地整理が終わった後は、ひでりや大水のひがいは少なくなりました。米のしゅうかくはふえ、くわ・あい作りからしゅうにゅうの多いやさいづくりへとかわり、近くでやさいいちばまで開かれるようになりました。
 げんざい、ゆたかな農地として、とくにやさいの早づくりとしてさかえているかげには、まずしい村をすくうために村人をせっとくし、こう地整理をすいしんした渡善弥のこうせきがあることをわすれてはならないのです。

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えいぞくこうで村を守る     長崎平治郎(ながさきへいじろう)

どりょくする平治郎(へいじろう)
 平治郎が、明治(めいじ)29年(1896年)4月ごろ、かきのこしたきちょうなしりょうが、長崎(ながさき)家にのこされています。20ページにおよぶ「長崎家かとくそうぞくのこころえ」です。このこころえには平治郎が50さいまでに行ったいろいろの活動の足あとが手にとるようにわかります。
 弘化(こうか)3年(1846年)に生まれ、8さいから西遊寺(さいゆうじ)のおぼうさんに習字や読書を学ぶこと5年。その後は農業にせいを出して、ひとりで6反(60アール)をたがやし、朝は5時起き、夜はおそくまではたらきました。家に帰ってからは読書をはじめさんじゅつ(算数)をこれまたひとりで勉強しました。
 24さいで、父原七(げんしち)が病弱のためかとくをつぎましたが、それほどゆたかなくらしではありませんでした。しょうや(村役人)をつとめていた父のあとを受けて、わかいときから、くろうの中にとびこんだのです。明治8年(1875年)には、わずか29さいで賀田山(かたやま)村(=今の賀田山町)のふくこちょうにえらばれました。

宇曽川筋(うそがわすじ)の村
 げんざいの小田部(おたべ)・小山(こやま)・大山(おやま)・茂賀(もが)の4地区ですが、あばれ川の名で知られる宇曽川はこの4地区にかんけいしています。かこにどれだけ田畑が水にしずみ、ゆかうえにまで水をかぶったかしれません。いま、住んでいる人の中には、これまでにも、家が何度か水がいにあっていますが、明治のころには、宇曽川のこう水にたいへんくろうをしました。田畑が水につかってしまえば、しゅうかくどころか、田畑そのものもどしゃであれてしまいます。苦しい生活にたえかねてしゃっ金をしたり、田畑を売ってしまう農家も数多くでました。江戸(えど)時代には、宇曽川にかかる木橋・土橋や水門のしゅうりは、彦根はんがひようを出していましたが、明治になってからはひようを村で出すことになったのです。

えいぞくこう
 明治13年(1880年)平治郎は、34さいでしたが、村のもっとも苦しい時に、賀田山村のこちょうを引き受けることになったのです。いろいろとなんもんがやまづみされる中で、自分のざいさんをなげ出すこともたびたびありました。こんなことでは、こんぽんてきなかいけつにはならないと考えた平治郎は、思いきって村のやくいん会にはかって「えいぞくこう」をつくることにしました。「えいぞくこう」とは村のやくいんが中心になって、お金を出し合い(平治郎は自分のざいさんをほとんど出す)これをききんにして、生活が苦しく、中には当時1わり5ぶという高いりそくでしゃっ金をしていた人や、田畑まで売ろうとする人たちに低いりそくでかしたり、田畑をこうで買い上げ、その田畑を本人に小作としてかして、少しの年ぐを受け取るほかはその家のしゅうにゅうとしたのです。このようにこまっている村人たちには「えいぞくこう」は大きな力をはっきしました。そして長いさいげつの間にはりえきも生み出してきました。それを、橋や水門、道路のしゅうり、学校けんせつなど、いろいろの方面に使いました。
 えいぞくこうは第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)が終わるころまで受けつがれましたがせんごのかいかくによってなくなりました。でも、人々のきおくに、今もはっきりのこっています。平治郎は大正9年(1920年)74さいでなくなりました。

※年ぐは田畑を地主からかりて、そのかりりょうとしてとれた作物の一部を地主にわたすこと。

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甘呂村(かんろむら)のこう地整理     庄屋小平次(しょうやこへいじ)

 元禄(げんろく)時代、彦根はんから甘呂村のしょうやをはいめいした小平次は、おんこうで正直で、せきにんかんの強い人でした。村人たちはこういう小平次のあとについていけば、村はきっとよくなると考えていました。
 小平次は、日ごろからせいどのかいぜんや、こう地の整理をしなければ村民の生活はよくならないと考え、土地の様子を調べ、交通・はい水のべんをよくすることを強くうったえました。
 元禄13年(1700年)彦根はんにねがいで、ゆるしがでるとかせんの開通を計画し、工事を進めました。この間、小平次はきびしい寒さとふりしきる雪の原野に立って工事のそくしんにつとめ、村民をげきれいしつづけました。こうして西の川・新海(しんがい)川・北川から安田領(やすだりょう)までの横川・八ノ坪(はちのつぼ)川・味噌淵(みそふち)川・七畝割(ななせわり)川の川ほりをかんつうしてふねのべんやはいすいのべんをよくすると同時に、田地のぞうせいにもどりょくし、今にのこる、りっぱな用水と田畑をきずいたのです。

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農業の近代かにつくす     西川勤衛(にしかわきんえ)

 明治(めいじ)36年(1903年)、三代目源太郎(げんたろう)の長男として稲村(いなむら)あざ石寺(=今の石寺町)に生まれた勤衛は、西川家四代目をそうぞくする運命にありました。へいえきの前後は、父とともに農業にじゅうじするかたわら、せい米業京都店の仕事をしていました。
 昭和32年12月愛西(あいせい)土地かいりょうくがせつりつされるや、その後21年間「わが生命を土地かいりょうにうちこんで」の一言にてっして、強いせきにんかんとたくましい実行力により、りっぱな土地かいりょうくとしてのきばんをつくりました。
 また、曾根沼(そねぬま)かんたく土地かいりょう区りじちょうとして、曾根沼の開発を計画しました。じもとみんから農業の先行きふあんとかんたくぞうせい地のしゅうへん農地およびぎょ業に対するほしょうなど数多くの問題がでて、反対の声が多いなかを、せっとくをかさねて、曾根沼かんたくじぎょうを6年あまりでかんせいするまで、おしみないど力をつづけました。

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ど力にど力を重ねた人     瀧富太郎(たきとみたろう)

てんがいのこじ
 富太郎(とみたろう)は、明治(めいじ)17年6月長野県上田市原町の茶舗(ちゃほ)、瀧利平治(たきりへいじ)の長男として生まれました。6さいで母、7さいで父が、相ついで病死しましたので、しんるいや父母の友人などが相談したうえ父のきょうり、稲里(いなさと)町の農業、北川家のよう子になりました。よう家は、よう父母二人ぐらしで、ようさんをふく業として細々とくらしていました。富太郎は、小学校から帰って来るとすぐにようふの荷車の先びきをして近くの町や村へ出かけて行き、夜はおそくもどることもたびたびでした。まずしい日々のくらしでしたが、しかし、よう父母からは、とてもかわいいがってもらっていました。
 小学校では着物も学用品もべんとう(米よりも麦の方が多い)もすべて、そまつなもので富太郎といっしょにあそんでくれる子はほとんどいませんでした。12さいでじんじょうかをそつぎょうごは家庭のじじょうもあり他家へほうこうに出ることになりました。能登川(のとがわ)町のあさぬのせいぞう業、河原崎伝五郎(かわらざきでんごろう)しにほうこうしました。これがしょうらい、富太郎のせんい業をもって身を立てるもとになったのです。
 さらに14さいになると大阪(おおさか)のおりものとんや、青木商店にでっちぼうこうに出ることになりました。17さいでそのはたらきぶりをみとめられ、たんどくでおとくい回りをするようになりました。このころからしごとねっしんであることを、みんなからもみとめられるようになってきました。明治37年、日ろせんそうがおこり世の中が大きくかわるなかで、富太郎は東京へ出ることを決意しました。そして、滋賀(しが)県しゅっしんのおりものとんやに知人のしょうかいではたらけるようになり、あらたな出発をしました。この時21さいでした。ねっしんに仕事をしたかいがあり、その後せんぱいにもしんらいされるようになりました。この時「自分は、きっとこの東京でせいこうするぞ、もしここでだめならどこへ行ってもだめだ。石にかじりついてもかならずせいこうしてみせるぞ」と心ひそかにちかうのでした。たいへんながんばりやだったのです。そして、文字通り、商売にせいこんをかたむけました。
 明治45年(1912年)日本橋にげん金おりものとんやを開業しました。その後、けいざいのふきょうでけいえいが苦しい時期もありましたが、持ち前のこんじょうとど力でのりこえ、しんてんぽ、店のかくちょうなどを次々に行って瀧富(たきとみ)商店を大きくせいちょうさせ、その名が国内に知れるようになりました。

竹生島弁財天(ちくぶじまべんざいてん)ほんでんこんりゅう
 昭和14年にきふの申しいれがあり、人々のためになると考えたがくをきふしたのです。

母校の体育かんをけんせつ
 稲枝(いなえ)東小学校は富太郎にとってゆいいつの母校であります。昭和17年に町長からこうどうけんちくのし金についてえんじょの申し出がありました。一時はせんそうでこの話もたち消えになりかけていましたが、さいどの申し出により、母校のために全がくのきふをしました。当時県下だい一といわれたりっぱな体育かんができました。また、同時にピアノもきふしました。ほんとうにすばらしいことと思います。また、野良田(のらだ)町の若宮(わかみや)神社の社でんも富太郎のきしんしたものです。

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わかもののゆめをのばせ     富江豊治郎(とみえとよじろう)

くなんにたえて
 豊治郎(とよじろう)は神崎郡葉枝見村(かんざきぐんはえみむら)大あざ新海(しんがい)(=今の新海町)で農家の次男として生まれました。せいちょうするにつれ、豊治郎の心はわかものらしいたいしをいだき始めました。明治(めいじ)32年(1899年)18さいになった豊治郎のゆめはさらに大きくふくらみました。前年、同じ町の堂ヶ崎初次郎(どうがさきはつじろう)がアメリカでせいこうしているのを聞き、しんるいの富江喜一(とみえきいち)とアメリカに行くことにしました。そのためには、たくさんのひようがかかります。しかし、そんな大金は思うにまかせません。父が知人をたよって、150円をようやくかりあつめてくれたのです。そのし金をふところに、4月8日、アメリカへ出発しました。
 アメリカ本土へわたったものの、ただちにまんぞくな仕事にはつけず、バンクーバー(カナダ)で仲仕(なかし)・ボーイなどなれない仕事をつづけましたが、決してへこたれることはありませんでした。「今に見ておれ」の意気にもえてど力し、ちょちくをふやしていきました。そして、それをもとでに土地を買い、農じょうけいえいに乗り出しました。その後第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)前にこうにゅうしていた土地がねあがりしたこともあって、仕事も大きくひろげ、400エーカー(やく162ヘクタール)の大農じょうしゅになりました。

にしきをかざる
 ロサンゼルス(アメリカがっしゅうこく)に住む豊治郎は、せんご、二人のむすことひとりむすめに、ふどうさん業とぼくちく業をまかせました。まごも4人できてらくいんきょの身となった豊治郎はなつかしいきょうりに帰りました。そして、ききょうのたびにふるさとにおんがえしをと、数々のきぞうをしました。それは、今も地区にひびきわたるゆうせんほうそうせつびをはじめ、ぼちのらいはいどう・ろう人会・ほいくえん・お寺へのきぞう、両厳寺(りょうごんじ)の親鸞聖人(しんらんしょうにん)のどうぞうなど、数かぎりないものでした。

青年時代のゆめを
 何回目かの帰国のおり、新海町では、大学出身者の少ないことをざんねんに思い、よりよい人ざいを多く世の中に送り出すこと、わかい人には勉強できるチャンスをあたえねばと考えて、しょう学し金にと、八幡製鉄(やはたせいてつ)5万かぶ(その当時、じかやく400万円)をきふしました。町では、このような豊治郎のねがいを受けて、昭和39年(1964年)「ふほういくえい会」をつくり、新海町出身の大学生に、せんこうのうえ、しょう学し金を送ることにしました。
 今も、新海町では、向学心(こうがくしん)にもえたわかいものが毎年数人、このしょう学金のおんけいにあずかっています。そして、富江豊治郎の意思にそって、社会に役立つりっぱな人間になるよう、勉学にはげんでいます。

※親鸞(1173年−1262年)は鎌倉(かまくら)しょきのそうで浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開いた人。ちょしょでは「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」が有名です。

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カナダいじゅうのさきがけ     堀善次郎(ほりぜんじろう)

 げんざいの大藪(おおやぶ)町や八坂(はっさか)町には、せんぞがカナダにいじゅうしていたという家がたくさんあります。そのカナダいじゅうの先がけとなった人が堀善次郎です。
 堀善次郎は、明治(めいじ)の中ごろ、昔の青柳(あおやぎ)村大あざ大藪(おおやぶ)で商売をしていましたが、ふけいきでたいへん苦しい生活をしていました。そこである日、うめぼしの入ったおにぎりを持っていっせきのはんせん(氷川丸)に乗りこみ横浜(よこはま)港を出ました。着いた港がカナダのバンクーバーです。
 おにぎりの中のうめぼしがきっかけになって、善次郎は商売を始め、バンクーバーの日本人がいに大きな店を持つようになりました。カナダりょうじかんの人にしんらいされ、生活にこまっている大藪の人々のほしょう人になって、とこうの世話をし、カナダではたらけるようにしました。善次郎の世話でカナダにわたった人々は、主にせいざいの仕事につき、日本にのこっている家族に仕送りをつづけ、生活も楽になっていったということです。

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りっぱな青少年を     小西うの(こにしうの)

苦しい生活の中で
 いまの城北(じょうほく)小学校区は、むかし、一部をのぞいて犬上ぐん松原(まつばら)村とよばれ、農業やぎょ業で生活するまずしい村でした。
 この村のほぼ中央に、村人たちが「宮の道」となづけた道がありました。そして、その中ほどに、四じょうはんに三じょうと土間だけというむねわりの古びた長屋があり、そこに人力車夫(じんりきしゃふ)をしている平次(へいじ)とおつるふうふが住んでいました。
 平次とおつるの間に女の子が生まれ、「うの」となづけて、一家は楽しくくらしていました。うのが寺子屋に通うようになったころ、弟が生まれ、四人家族になってからは、平次のかせぎだけでは生活が苦しいので、うのは寺子屋に通うことが出来なくなりました。べんきょうずきだったうのは、弟の世話をしながら母の内しょくや家事のてつだいをしました。そして、少しの時間を見つけては自分で勉強しました。
 ところが、昼夜のべつなくはたらきつづけた母は、ひろうのため病気になり、いく日もつづいたこうねつでしりょくをうしない、耳まで聞こえなくなりました。うのは勉強をつづけるかたわら、いままでいじょうに内しょくや家事にはげみながら母の世話をしました。
 大阪(おおさか)の開昇楼(かいしょうろう)という店の主人がこのことを聞き、ようじょにしたいと言ってきました。うのは家計のことを考え、うしろがみをひかれる思いでようじょになる決心をしました。

開昇楼のこまちむすめ
 開昇楼のようじょになったうのは、よくはたらき、よう父母にかわいがられせいちょうし、“開昇楼のこまちむすめ”といわれるようになりました。そして、播州(ばんしゅう)(=今の兵庫(ひょうご)県)網干(あぼし)出身の青年、小西源次(げんじ)とむすばれました。よう父母は、このことをたいへんよろこび、うのふうふの幸せをねがって幸昇楼(こうしょうろう)となづけた店を持たせました。うのはいっしょうけんめいにはたらいて、昭和のはじめには16のしてんを持つようになりました。
 昭和10年ごろ、松原(まつばら)村の小学校はしせつがひんじゃくで、学業せいせきも他の小学校よりおとり、進学する人も少ないので、村ぎ会で問題になりました。そして、これからの社会でりっぱにかつやくする青少年を育てるには、教室をふやし、こうどうをたてなければならないと話し合われました。しかし、まずしい村のざいせいだけではし金が足らず、村外に出てせいこうした人々のきふにたよらなければなりませんでした。ところがきふをしてくれる人が少く、し金は思うように集まりませんでした。
 村では、いろいろ話し合ったすえ、思い切って小西うのにこうどうのきふをたのむことにしました。

青少年にゆめを
 松原村では、さっそく助役の若林源之介(わかばやしげんのすけ)がこうしょうにあたるため、大阪に旅立ちました。
 このころ、うのはぜつガンのため大阪大学の病院に入院中で、出会うことが出来ません。
 ようやく面会がゆるされ、じじょうを話したところ、うのはなみだぐみ、「よう話してくれました。わたしはもうよめいもない身です。これからは勉強が大切や。ちりょうひもたくさんいるので、多くのきふは出来ないが、よろこんできふさせてもらいましょう。どうかりっぱな青少年を育てておくれ。」と、こうどうのきふを引きうけてくれました。
 松原村では、しんちくされたこうどうに、「小西こうどう」となづけ、いつまでも小西うののいとくをわすれないようにと、頌徳碑(しょうとくひ)をたてました。

※頌徳碑(しょうとくひ)は生前のすぐれた人がらや、考えを世の人々に広くつたえて、後のもはんにするためたてるひのこと。

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ししょうのためにわが命を     法善(ほうぜん)

げきどうの時代
 光勝(こうしょう)寺は、賀田山町(かたやまちょう)小山にあります。村の外からは屋根も見えず、ひっそりとたっている小さな寺です。この寺には、むかし織田信長(おだのぶなが)がかつやくしていたころ、ひとりのそう法善にまつわる悲しい話がのこされています。
 織田信長が滋賀(しが)県下で、多くの寺をやきうちしたり、多くの人をころした、暗い話は有名ですが、そのころ法善は信長と石山本願(いしやまほんがん)寺(大阪城(おおさかじょう)ちくじょう前にあった寺)とのたたかいのまっただ中にまきこまれていく運命になったのです。
 なにしろ四百年いじょうもむかしのことで、これというきろくもないまま、口から口につたえられてきた話なので、法善がいつどこで生まれたのか、父母がだれだったのかわかりません。

光勝寺のかんし
 元亀(げんき)元年(1570年)2月、光勝寺は、彦根市薩摩(さつま)町にある善照(ぜんしょう)寺の道場として開かれ、法善はそのかんしとして寺を守っていました。当時、善照寺のそうであった唯明(ゆいみょう)は、石山本願寺のために信長とたたかったので、信長は、唯明をいつかなきものにしようとねらっていました。たたかいのたいせいが信長にかたむくと、善照寺にもどった唯明は、まさに織田ぐんのやいばにさらされるすんぜんまで追いつめられました。天正(てんしょう)6年(1578年)11月のことです。この当時のようすは、「善照寺由来の記(ぜんじょうじゆらいのき)」に、つぎのように記されています。
「天正のころ、織田家のいかりにふれ、当寺はきゃくせられほうぶつあるいは代々のきろく・しょせき大半をうしないたるに後にこうきょそうたくよりひろい来るもさんらんはめつしていきょくなることをえず。…………こうりゃく」
 法善にとって唯明は、まさに自分がそんけいするししょうでした。たまたま二人は年れいも同じで、すがたもにていたことから、今こそししょうのおんにむくいる時だと自らさとり、身がわりになろうと決心しました。そこで、唯明をこっそり今の米原(まいばら)市筑摩(ちくま)の方へにがし、自らは善照寺を出て、光勝寺に向かいました。ちょうど宇曽(うそ)川の近く(古城山(こしろやま)とよばれる山すそ)を進む時、信長がたのぐんぜいにとりかこまれ、首をはねられました。11月22日のことです。

木ぼりのじぞうそん
 人々はこの悲しいできごとをいたんで、ひげきの場所を、「剣ヶ越(つるぎがごえ)」とよぶようになりました。法善のなきがらがはたしてどこにほうむられたのかこれもなぞです。ただかれがはだみはなさず身につけていた木ぼりのじぞうそんだけは、後に善照寺にとどけられ、今も大切にほかんされています。わずか10センチばかりのほとけさまに法善のねがいがこめられていたのです。唯明はぶじに善照寺にもどることができました。
 古城山には、信長がたのぶしょうがしろをかまえていました。そんなきけんとせなかあわせの中で、法善はこっそりとほとけさまをおがみ、ひたすらほとけの道を農民につたえつづけたのです。一人のかんし(どうもり)で終わったかも知れない法善が、今の時代に語りつがれているのは、法善の命をかけてしをおもうねつじょうがあったからです。
 なお、善照寺のけいだいには、法善の慰霊碑(いれいひ)がたてられていて、400よ年前のほうなんげきどうの時代がしのばれます。

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あっぱれせいぎをしめした     本庄助作(ほんじょうすけさく)

助作(すけさく)やしき
 今から300年あまり前、だい二代はんしゅ井伊直孝(いいなおたか)のころに神崎郡本庄(かんざきぐんほんじょう)村(今の彦根市本庄(ほんじょう)町)に本庄助作というごうしが住んでいました。助作のせんぞは小早川(こばやかわ)といって、豊臣秀吉(とよとみひでよし)につかえていた筑前(ちくぜん)はんしゅ小早川隆景(こばやかわたかかげ)の一ぞくで、この地にうつりすんだのです。
 明治(めいじ)のはじめごろまでのこっていたといわれる助作やしきは、めんせきが1ヘクタールもあり三方はほりをめぐらせていました。このほりは、はばをせばめてげんざいは小川になり、わずかに昔のおもかげをのこしているにすぎません。しかし、元和(げんな)・寛永(かんえい)のころは、表門を入ると、本屋・しょ院・はなれや・どぞう・長屋等がたちならび、庭園のつき山には山もものろうじゅがしげって、ごうしのやかたにふさわしいものでした。

助作そうどう
 助作は、身長が5しゃく(やく150センチメートル)に足りないせの低い人でしたが、生まれつきごうたんでけんじゅつのたつじんでした。この助作が万治(まんじ)元年(1658年)に新村・阿弥陀堂(あみだどう)村・乙女浜(おとめはま)の三か村(=今の能登川(のとがわ)町)の人々を相手に、愛知川(えちがわ)町左岸の川尻(かわじり)に自生するあし地のしょゆうけんについてあらそいました。これは、助作の母が宮西村(=今の能登川町新宮(しんぐう)西)のどごう、居原田五郎左衛門(いはらだごろうざえもん)から、本庄村へとつぐ時、父のくちやくそくによってもらった土地なのです。ところが、三か村の人々は母方の父がなくなると、むだんであしをかり、まるで自分たちの土地のようにふるまっていました。
 あし地のめんせきは17ヘクタールにわたっていました。当時、あしはきちょうなもので、米にかんさんして、およそ200ぴょうばかりのねうちがありました。
 助作はたびたび、「そこのあしは、むだんでかったらあかん。それはわたしのものじゃ。」と言うのですが、三か村の人々はいっこうに聞き入れようとしません。何度も同じことがつづいたが、らちがあかないので、ぶぎょうしょへうったえて、白黒をつけようと決心しました。

はんけつの日
 いよいよけっしんの日になりました。あくまで、自分の勝ちをしんじた助作は、母をなぐさめると朝早く家を後にしました。ぶぎょうしょについて助作はむねをはってはんけつを待ちましたが、あし地が助作りょうであるというしょうもんがないという理由ではいそになってしまいました。くやしい思いの助作は、この上はぶしとしていさぎよく死んで、せいぎをしめそうと決意しました。そして、つきそいやくの本庄村しょうや西堀権太夫(にしぼりごんだゆう)に「後のことはよろしくおねがい申し上げる。」とゆいごんして、はらを十文字にかき切りました。
「あっぱれなごけつい、そなたのせいいはかならずおつたえもうす。」
権太夫はかいしゃくを終えると、助作のないぞうをさんぽうにのせてさし出しました。
 ぶぎょうをはじめ、役人一同は、助作のかくごにおどろき、そのせいいをみとめて、さきのはんけつを取り消し、あらためて助作の勝ちとさだめました。時は、万治元年(1658年)9月19日のことでした。

※どごうは、その土地に住んでいるごうぞくのこと。

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彦根じょうを取りこわしから守る     福田寺かね子(ふくでんじかねこ)

 いしん後、明治(めいじ)7年(1874年)にはじょうかくのかいたいが進められ、11年にはてんしゅかくかいたいの足ばも組まれました。こうしたなかで、彦根じょうを取りこわしてから守ったのは、近江(おうみ)町長沢(ながさわ)の福田寺のおくがた、かね子です。京都のくげ二条斎敬(にじょうなりゆき)の妹にあたり、明治天皇(めいじてんのう)のこうごう昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)のいとこになります。
 明治11年(1878年)10月11日、北りくじゅんこうの明治天皇は、福田寺で休まれました。この時にちょくせつおねがいをして、大隈重信(おおくましげのぶ)により彦根じょうかいたいちゅうしがつたえられたということです。
かね子と福田寺じゅうしょくとのこんいんには井伊直弼(いいなおすけ)がなこうどをつとめたり、直弼のそくじょが福田寺にとついだというあいだがらもありますが、はくあのてんしゅが今にのこったのはたった一日のドラマがあったからです。

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一生を社会のために     中村一蔵(なかむらいちぞう)

 中村一蔵は、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)西今町の中村伊作(いさく)の長男として生まれました。おさないころから友だちをいたわり人のいやがる仕事を進んで引き受けるなど、いつも人のためにつくしました。
 25さいの時に東京の和仏法律(わふつほうりつ)学校(=今の法政(ほうせい)大学)をそつぎょうするともんぶしょうの地理きょくにつとめましたが、何とかしてきょうどのために仕事がしたい、という思いから、二年あまりでもんぶしょうをたいしょくしてきょうりに帰りました。
 27さいで滋賀(しが)県ぎ会のぎいんにとうせんしてから、ふくぎちょうなどのやくしょくにつきましたが、大正9年(1920年)には、国立滋賀大学経済(けいざい)学部(当時は、彦根高等商業学校)のけんせつにど力しました。
 また、福満(ふくみつ)村の村長になってからは、小学校のとうごうや犬上川のていぼうの大かいしゅう、道路のせいびなど、きょうどのためにつくしました。

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明治維新(めいじいしん)に力をつくす     大東義徹(おおひがしよしあきら)

きびしい父のしつけ
 義徹は、天保(てんぽう)12年(1841年)に彦根はんし、小西貞徹(こにしさだとし)の二男として生まれました。義徹のおさないころに母はなくなり、父の手一つで育てられました。ばくまつはぶしの生活が苦しい時代でした。まして、かれのように足軽の家に生まれると、一人前にはみとめてもらえず、かたなも一本しか待てませんでした。たいへんまずしいくらしの毎日でした。
 しかし、父はたいそうげんかくで、しかも、母親が、早くなくなったのでりっぱなぶしに育てるには、きびしくしつけなければならないと考えました。毎日、朝早くからおさなない子どもたちを、芹(せり)川へつれて行って、ぞう木を切らせ、それでだんをとらせました。またおさないうちから、きびしくけんじゅつを教えました。少しでも心にすきがあると、手かげんせずに打ちのめしました。このようなまずしさときびしさが、義徹に大きくなったら人々のために、国のためになるような仕事がしてみたいというたいしをいだかせるもとになったのでしょう。

鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)のたたかい
 ばくまつからいしんにかけて、これまでせいじのけんりょくをもっていたばくふがたと、これからせいけんをとろうと、とうばくをねらうてんのうがたとの間であらそいがつづいていました。慶応(けいおう)4年(1868年)に、京都のてんのうがたをつぶそうと、ばくふぐんは大阪(おおさか)でへいを集め北へ進んで行きました。それを何とかくいとめようと、西郷隆盛(さいごうたかもり)は、てんのうがたのしきをとりながら、ひっしでたたかいました。これが、鳥羽・伏見のたたかいです。しかし、てんのうがたはへいも少なく、せめ上がってくるばくふぐんをふせぐには、かなりこんなんでした。西郷隆盛らは、思わぬくせんに死をかくごしたときもありました。
 この時、いきおいづいたばくふぐんに大きなごうほうとともに一発の大ほうがうちこまれました。このいちげきでばくふぐんのせんいはおとろえ、ぎゃくにいきおいをもり返したてんのうがたのはんげきで、あっという間にはいたいしてしまいました。このほうへいたいをしきしたのが当時27さいの義徹でした。義徹はわかいころからほうじゅつのわざをねっしんにみがき、このころには、かれのほうじゅつは、はん内のだれもがみとめるうでをもっていました。

おうべいに学ぶ
 鳥羽・伏見のたたかいで、めざましいはたらきがみとめられた義徹は、ちゅうおうせいかいへ進出する足がかりをつかみました。
 明治4年(1871年)岩倉具視(いわくらともみ)らのおうべいしさつの一行に彦根はんの代表としてくわえられました。おうべいしょこくの進んだ文化・せいどなどを見てさすがの義徹もおどろきました。そして、
「日本も、何とかしてこれらのせんしんしょこくに追いつかねばならない。よし、やるぞ。」
と、義徹はあつい思いをいだいて帰国しました。
 明治23年(1890年)だい一回てい国ぎ会がそうせつされた時、義徹は多くのしじをえて、しゅうぎいんぎいんにとうせんしました。そして、31年、大隈重信(おおくましげのぶ)内かくがせいりつした時、滋賀(しが)県出身者ではつのしほうだいじんになり、明治せいふのじゅうような事業であったしんほうてんへんさんなどに、大いにうでをふるいました。これが、開国の時におうべいからおしつけられた、あのふびょうどうじょうやくをかいせいしていく大きな力になったのです。
 ごうけつで、しんぽてきな考えを大いにはっきして、明治という新しい日本の夜明けに数々のこうせきを上げた義徹でしたが、人とせっする時は、いつも相手の気持ちを重んじました。これも、おさないころのまずしい生活と父のきびしい教えがあったからです。

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ひたすら人のために     久木冨次郎(ひさきとみじろう)

冨次郎のすがお
 「久木冨次郎随筆集(ずいひつしゅう)」という本があります。冨次郎は太堂(たいどう)町に住み、亀山(かめやま)村とともに歩んできましたが、この本は、昭和52年2月1日、まん95さいを目前にしてなくなった冨次郎が93さいから書き始め、のち家族の手によってはっかんされたものです。
 「明治(めいじ)15年に生まれ、大正・昭和と一せいき近くをただいってつに生きてきた父は、わが一家一ぞくやきょうどに数々のあしあとをのこしてきました。家ていてきにはきわめてせんせいてきで、およそじ父というにはえん遠い父でしたが、わかいころからくろうにくろうを重ね、家をおこし一ぞく一門のはんえいをたすけたこうせきにはけいふくせねばなりません。家庭の外における父は、それが自分のてんしょくでもあるかのごとく、きょうどのこと他人のことにほねみもおしまず走り回っていました。たしかに父冨次郎はわが久木家のれきしの中にとくいなそんざいとしてのこることと思います。」
 これは、長男恒太郎(つねたろう)のことばです。冨次郎が14さいのとき父をなくし、その年兄がへいえきにとられるという中で、母を助けるという文字通り一家の大黒柱でした。そして、今で言えば中学2年か3年生の年で、せんぞからの家や土地を守っていくくろうはなみたいていではありませんでした。

数々のぎょうせき
 姉と妹をとつがせ、弟のけっこんなど、すべてのことが、冨次郎のかたにかかっていたようです。でも、ぎゃくきょうの中でつちかってきた心の強さ、ねばり強さは滋賀(しが)県下ではじめてというかがくひりょうせいぞう会社のけいえいにはっきされ、事業としてせいこうさせました。
 明治41年(1908年)25さいの時に、亀山(かめやま)村村会ぎいんにすいせんされると、冨次郎はやくしょくのとぎれる間がありませんでした。
 大正元年(1912年)太堂の区長を引き受けると、それまでだれひとり手をつけようとしなかっ

た1ヘクタールのあれ地をこう地にするため、県にちんじょうし、村人をせっとくしつづけました。この間三度のていぼうけっかいにあいながらも、ようやく美田が生まれました。村のためになるとは、くろうをいとわずに、ただせいしんせいいつくしました。

ちょちくのしょうれい
 物事の道理をはっきりのべる。言いにくいことでも、歯にきぬを着せない冨次郎のきしょうに、はんかんを持つ者もいたようです。でもさいごには冨次郎の道理になっとくしました。
 大正のはじめごろ、「つきなみちょきん」といって、毎月10せん20せん(げんざいの500円か1000円くらい)のちょきんをしょうれいし、当番の者が計算して銀行にあずけるということをしました。それは、「振農会(しんのうかい)」で、毎年米5しょう(7〜8キログラム)を出させ、それを売ってちょちくをしていきました。おごることなく、つねにしっそにくらすということは、当時としては当たり前のことだったにちがいありませんが、そのことをじっさいに、村の人たちに実行させていった原動力も、明治生まれの人のきこつを感じさせます。家族や村内の人にけむたがられながらも、ひたすらつくしつづけた冨次郎の人生でした。

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きょうどのはってんに力をそそぐ     向坂政平(さきさかまさへい)

政平のわかき時代
 政平は、明治(めいじ)19年(1886年)2月12日に稲部(いなべ)町の向坂政平の長男として生まれました。ようみょうは文右衛門(ぶんえもん)といい、後にしゅうめいしたのです。向坂家は、代々農業をいとなみ、そせんはしょうや、こちょうをつとめた家がらです。政平は、稲枝(いなえ)じんじょう高等小学校、県立彦根中学校、鹿児島(かごしま)だい七高等学校、京都てい国大学(ほう学部)をそつぎょうしました。父の病死によってほうりつへのしぼうをすてて家業をつぎ、農業法けいえいに力を注ぎました。大学時代にはべんりしをけいけんしたこともありました。
 昭和12年(1937年)には、おされて県会ぎいんせんきょに出馬し、37さいのわかさでとうせんすると、きょうど滋賀(しが)のはってんのためにど力しました。また政平は、稲枝(いなえ)しんよう組合長として、さんぎょうのいくせいとけいざいのはってんのためにど力しました。この間、組合内でおこった金せんもんだいのかいけつに、ずいぶんくろうしたようです。こんなんなじょうきょうに合っても、自らの力でこんなんに立ち向かうゆうきはすばらしいものでした。

せんごのとりくみ
 大正22年(1923年)に、だい二代目の稲枝村長にえらばれ、村人のためにいろいろとど力をしてきました。ゆたかで明るく住みよい村づくりのために人々の先頭に立って仕事をしました。その中で大きなぎょうせきとして、三村(稲枝(いなえ)村・稲(いな)村・葉枝見(はえみ)村)がっぺいがあげられます。次に愛西(あいせい)土地かいりょうくのしょだいりじちょうとしてほじょうせいびの仕事につとめました。ついで、滋賀(しが)県せんきょかんりいいん長につきました。これは、公正にせんきょが行なわれるように見守る仕事で大事な役目です。さらにその後、滋賀(しが)県市町村会長というたいへんじゅうような仕事をしました。市町村会長をやめた後、昭和34年(1959年)稲枝町長にりっこうほし、数多くのしじをえてとうせんしました。町長の仕事をつとめている時、稲枝東小学校体育館のけんせつにあたっては、当時の校長とともに、何度か瀧富太郎(たきとみたろう)に出会い、母校のためにし金えんじょのおねがいに行きました。そして、ど力とくろうがむくわれて、りっぱな体育館をたてることができました。そのころから政平は、けんこうをがいしましたが、わかい時からきょうりのためにつくしながら昭和45年(1970年)84さいで一生を終わりました。

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地ほうじちにつくす     岡田伊太郎(おかだいたろう)

 明治(めいじ)13年(1890年)、稲(いな)村村長をつとめ、そのこうせきによりらんじゅほうしょうをたまわった岡田伊平(おかだいへい)の長男として上岡部(かみおかべ)で生まれました。たいへんがんばって勉強して、自分から進んで東京の農学校で農かをせんこうし、また夜には、日本大学でけんきゅうをつづけました。
 そのすさまじい勉強によって、深い学しきと、地ほうせいじについて正しいはんだんりょくを身につけました。そして、稲村に帰ってくるや、多くの村民が伊太郎のちしきと人間せいを高くひょうかし、明治44年6月に稲村村長にしゅうにんしました。
 しかし、稲村は一つにまとまることなく意見がまっ二つに分かれて、あらゆることで対立しました。しかし、伊太郎はゆうし山本種次郎(やまもとたねじろう)とともにかいけつに力をつくしました。そしてついに稲村を一つにまとめたのです。このど力からも、伊太郎がいかに地いきのみんなからしんらいされるぎょうせいをしていたかが、うかがえます。

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高宮のためにつくす     馬場利三郎(ばばりさぶろう)

 明治(めいじ)6年(1873年)に高宮に生まれました。父庄蔵(しょうぞう)やおじ馬場新三(ばばしんぞう)のえいきょうを受けて育ちました。
 高宮町長として、地いきのさんぎょうをさかんにしたり、こう地整理をしたり、水り事業をじゅうじつしたり、商業のはってんにつとめたりしました。
 学むいいんとして、じどう・青少年の教育・いくせいにも力を入れ、文化活動をさかんにしました。高宮神社うじこそうだいとして、前のかんぬし・車戸(くるまど)しのこうにんとして、大菅(おおすが)しをむかえ、神社のりゅうせいにつとめました。
 馬場新三のおこした進徳(しんとく)社を受けつぎ、かくしゅだんたいへのこうえんかつどうをおこないました。
 病気のために、たいにんしてからは、町のそうだん役として、しどうてきたちばにありました。
 がんかの医者でしたが、終生、開業することはなく、むりょうでのしんりょうを行って、学校や地いきのがんかいりょうにつくしました。昭和17年(1942年)69さいでなくなりました。

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