先人は今も社会に生きている

 社会につくした人々にふさわしい人物として、蒲地(かまち)、渡(わたり)、大橋(おおはし)、長崎(ながさき)の4人が登場しました。どの話を読んでも、強くかんめいを受けるのは、きょうどをあいする心の強さでしょう。ふるさとの田畑をあいし、山をあいし、人々をあいする心を、自らの行動でしょうめいするということが、自分のぎせいの上になりたっていて、その人のねがいがいたいばかりにつたわってきます。
 今、わたしたちは、昭和60年代を生きています。生まれた時にあるものは、それがあってとうぜんのように思いがちですが、実は、みのまわりに見られる数多くのものが、れきしの流れの中にうずもれがちな、数知れない人々の血やあせによって生み出されてきたことにめを向けてほしいと思うのです。わたしたちは、先人のきずきあげた土地の上に、社会の上に生きていることを、あらためて考えたいものです。

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強いきょうどあい

 古くは江戸時代(えどじだい)から、明治(めいじ)、大正(たいしょう)、昭和(しょうわ)にかけて、話題を拾い上げてきました。
 人物のひとがらを知ろうにも、すでにその人を知っている人すらほとほとんどいない中で、しゅざいにくろうしましたが、それでもなお、ついさいきんまで生きておられたかのように受け止められるのは、その人物のうつわの大きさと言えましょう。
 次に登場する人物は、社会へのいだいなこうけんは言うにおよばず、社会に尽そうとする心が、わかい時にくろうのれんぞくの中でつちかわれたというきょうつうてんをもつ人たちです。おさなくして両親をうしない、ようしとして育った身の上や、ひんこんを切り開く活路を海外にもとめた身の上など、その一つ一つが、苦しい生活を切り開くなかから、見事にせいこうをかちとり、さらに、強いきょうどあいへとはってんしていったれいです。大いなる感動をわたしたちにあたえてくれる、すばらしい人生のせんぱいだと言えます。

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松原内湖(まつばらないこ)のかんたく

 第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)も終わりに近づいた昭和19年(1944年)5月、国の事業として松原内湖(まつばらないこ)をかんたくすることになりました。
 松原内湖は、そのむかし、織田信長(おだのぶなが)によってけんぞうされたぐんせんの港としてりようされたり、石田三成(いしだみつなり)時代(じだい)には佐和山城(さわやまじょう)のからめて(しろのうらもん)を守る役目をしていました。さらに百間橋(ひゃっけんばし)がかけられていた所でした。また、江戸時代(えどじだい)には、彦根はんのすいぐんのきちでした。
 この内湖を、しょくりょうぞうさんのためかんたくして水田にしたのです。かんたくの仕事は、おもにがくとどういんの学生が行いましたが、食事の世話などは、彦根のふじんかいがほうししました。
 しゅうせんごは、のうりんしょうの事業としてろうむしゃにちんぎんをしはらって作業をつづけ、昭和23年にようやくかんせいしました。しかし、できあがった水田にいねを植えるときは、こしまで土にうまったと言われています。げんざいでも、矢倉(やぐら)川のかこうにポンプ小屋があって、琵琶(びわ)湖へはいすいをしています。

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犬上川の人柱

 今から400年あまり前、湖北(こほく)の浅井長政(あざいながまさ)・福井(ふくい)の朝倉義景(あさくらよしかげ)のれんごうぐんと、織田信長(おだのぶなが)・徳川家康(とくがわいえやす)のれんごうぐんが姉川をはさんで、まさにかっせんになろうとするところです。
 つづくせんらんのために田畑はあらされ、その上、甘呂(かんろ)の北を流れる犬上川がたびたびぞうすいして、甘呂町の島田堤(しまだつつみ)がくずれ、家や田畑が流されたり、ついには死者や行くえふめいしゃがでるなど、人々はたいへんこまっていました。
 こうなっては、島田堤が切れないようにだいしゅうりをするしかありませんが、これといったよいほうほうがみつかりませんでした。
 そんなある日、しょうやのむすめお丸が、りゅうじんのいかりをしずめ、父や村人たちの苦しみをすくおうと、自ら名のり出て、川のそこにしずみました。それからは、島田堤が切れることはなくなりました。村の人たちは大そうよろこび、りゅうじんさまとしてまつりました。今もお丸のとくをたたえたせきひがのこっています。

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金前坊(こんぜんぼう)

 と地かいりょうが行われる前、上西川町の南東に、金前坊とよばれる、400平方メートルほどのうっそうとしたぞうきばやしがありました。しゅういはほりとよばれるはば4メートルほどの川でかこまれていました。
 金前坊とは、その昔、観音寺(かんのんじ)山にきょじょうした佐々木六角(ささきろっかく)しの四天王のひとり西川道西がきょじゅうしたあと。
 六角しは織田信長(おだのぶなが)にこうりゃくされ、道西もやぶれて、帰らぬ人になりました。おくがたは悲しみのため、ほりに身を投げました。おどろいた家来が、その場にかけつけましたが、すでにおくがたのすがたはなく、どうのまわりが30センチあまりもあるだいじゃが泳いでいました。
 明治(めいじ)年間には、まだこのだいじゃがときおり、遊泳(ゆうえい)しているのを見かけた者があり、それがじょせいなら、かならず病気になったということです。

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彦根公立病院をつくる

 ばくまつのころ、直弼(なおすけ)はばくふの筆頭(ひっとう)に立ってせいじを行っていました。つまり、いしんせいふとは正反対の立場にあったわけで、はいはんちけんご、彦根は急速(きゅうそく)に活気(かっき)をうしなっていきました。
 しかし、かつての彦根はんじだいに育った多くのすぐれたじんざいが彦根にのこっていました。そして、何とかしていぜんのいきおいをとりもどさなければならないと考えていました。
 そのころ、ドイツにりゅうがくしていた学生が帰って来て、近代西洋医学(きんだいせいよういがく)がいかに進んでいるか、そして、病人をしゅうようするしせつのひつようせいをうったえました。明治(めいじ)22年、彦根ちょうせいがしこうされ、新しい彦根を作ろうとする気運(きうん)は、いっきに高まっていきました。明治24年4月、宗安寺(そうあんじ)の南となりのきゅうばんしょあとにけいさつしょとなったたてものをしゅうり、かいちくして、ついに公立病院がかいせつされたのでした。

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ゆうびんとりあつかい所できる

 明治(めいじ)せいふは、それまでのひきゃくにかえて、ゆうびんせいどを全国に広めようとしました。
 彦根では、明治5年(1872年)にせいふのめいれいを受けて、「彦根本町(ほんまち)ゆうびんきょく、ゆうびんとりあつかいじょ(しょだいきょくちょう、小川九平(くへい))」がかいせつされました。
 当時、滋賀(しが)けんでは9つしかゆうびんきょくがなかったので、彦根のゆうびんきょくがはいたつするはんいは長浜(ながはま)から高宮までと、たいへん広いちいきにわたっていました。道といえないような所をわらじをはいて歩いてはいたつするのですから、たいへんな仕事だったと思われます。でも、当時の人にはあたりまえのことで、長くけわしい道のりも平気だったそうです。
 こうして、彦根にも文明開化(ぶんめいかいか)のいぶきが感じられるようになってきました。
そこで、ちほうじちのはってんに力をつくした人々をしょうかいしましょう。

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