ど力のじゅ学者     若林強斎(わかばやしきょうさい)

くなんの少年期
 強斎は、延宝(えんぽう)7年(1679年)7月に彦根ろうし・若林長軒(わかばやしながのき)の子として、犬上ぐん平田村(=今の彦根市平田町)で生まれました。強斎というのは、号(ペンネーム)で本名を進居(ゆきやす)といいました。家族は、父母と姉の4人でした。
 強斎は、小さい時からひじょうにかしこい子でした。とくに、囲碁(いご)をひとりで学び、当時の本因坊(ほんいんぼう)(=囲碁のチャンピオン)と勝負をして3番をかちぬくというほどにうでまえをあげました。
 その後、家族は住まいを京都にうつし、父・長軒は医者として生計をたてようとしましたが、病気がちでしゅうにゅうも少なく、さらに母と姉もまた病弱であったため生活はまずしくなる一方でした。そこで強斎は、夜もねないでようじをけずって一家のくらしをたてていました。しかし、ますます生活が苦しくなっていくので、強斎は、20さいごろ住まいを大津(おおつ)の、徴妙(びみょう)寺というお寺のけいだいに、そまつな家をかりてうつりすみました。

苦学の青年期
 強斎は、ようしょうの時から学問がすきで、びんぼうな生活でも、ひまさえあれば書物を読んでいました。21さいの時、名高いじゅ学者の浅見絧斎(あさみけいさい)のじゅくで学問を教えてもらいました。
 そのころ、強斎が住んでいる所からじゅくまでは3里(やく12キロメートル)もありました。じゅくは、たつのこく(午前8時)に始まるので、それに間に合うためには朝まだ星が出ているころに家を出て歩いていかなければなりませんでした。山道を歩いていくうちに着物があせでぬれてきます。強斎は、
「あせくさいいふくで先生の前にすわるのはしつれいにあたる。」
と思って、着ている着物やはかまをぬいで刀のえにしばりつけ、下着1まいになって、これをかついで行きました。
 また、暑い日であろうと寒い日であろうと、じゅくの始まるじこくに、一度もおくれたことがありませんでした。
 しかし、くらしはますます苦しくなり、一時はどうにもならないほどになりましたが、学問をついきゅうしようとする気持ちは、いぜんよりもさらにましてきました。このようにど力すること数年、ついに絧斎の門下で三本の指に数えられるすぐれたじゅ者になりました。
 そして、ししょうの名前「斎(さい)」の字をいただき「強斎」というごうをつけてもらいました。このことは、絧斎が自分の後つぎにしたいと考えていたあらわれでしょう。これもすべて、苦学しながらまじめに学問にはげみ、ど力したけっかのたまものです。

家塾(かじゅく)を開く
 強斎が33さいの時に、ししょうの絧斎がなくなりました。強斎は、ししょうのあとをついで「望楠軒(ぼうなんけん)」という名のじゅくを京都で開きました。正徳(しょうとく)元年(1711年)12月のことです。
 このじゅくは、心をきたえ、人かくをやしなうことをもくてきにして教育を進めました。弟子は、200人いじょうにもなり、強斎の教育のすばらしさが世の中にひろがっていきました。このことを聞いた多くの大名は、強斎をはんこうのきょうしになってもらおうと思いました。
とくに、彦根はんだい六代はんしゅ直恒(なおつね)は、強斎をしろにまねいて、
「彦根は先生のこきょう平田村にも近いし、たいぐうものぞむ通りにしましょう。」
と言って、さいさんさいしおねがいしましたが、強斎は、
「苦しみを受けることは、自分をみがくこと。楽してりっぱな人物になろうとは思いません。」
と言って、すべてことわりました。
 さいごまで、だれにも仕えず、ししょうのこころざしをつらぬいてくろうの一生を終わりました。

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古学(こがく)の道をといた    沢村琴所(さまむらきんしょ)

江戸(えど)への道
 沢村琴所は名前を維顕(これあき)と言いました。琴所(きんしょ)というのは号(ごう)です。
 貞享(じょうきょう)3年(1686年)3月5日、彦根はんし沢村左平太(さわむらさへいた)の子として生まれました。14さいで父のあとをついでだい五代はんしゅ直通(なおみち)の近侍(きんじ)(=はんしゅのおそば近くに仕えること)となりました。そして、維顕がかしこい少年であることがみとめられて、江戸へのおともがゆるされました。きんじになるというのは、この上もなくめいよなことであり、はんしゅのそば近くにいればそれだけ出世のきかいにもめぐまれるわけですから、維顕にとっても家族にとっても、きぼうあふれる旅立ちでした。
 ところが、江戸に出て3年目、17さいの時、心疾(しんしつ)という心の病(ノイローゼ)にかかりました。当時、はんの定めには、「心疾ある者はせきをけずりて、ふたたび仕ふるをえず。」と書かれていました。それは、この病気になった者は、すぐやくしょくを取り上げられ、しょうがい二度とはんに仕えることができなくなるのです。3年前、きぼうにもえて江戸へ行ったその道を、維顕はどんな思いで帰ってきたことでしょう。

古学への道
 ぶしにとってはんしゅに仕える道をたたれるということは、生きがいをうしなうことで、たいへんつらいことでした。維顕は3年の間、門をとざして家にとじこもり書物を読みながら心の病気をいやしました。やがて病気もかいふくしたので、京都に出て伊藤東涯(いとうとうがい)の門に入って宋学(そうがく)を学びました。6、7年もの間ひたすら宋学のけんきゅうにつとめましたが、何かもの足りなさを感じていました。こんな時に見つけたのが、そのころ江戸に住んでいた荻生徂徠(おぎゅうそらい)の書物でした。維顕は、
「これこそ自分のもとめていた学問の道だ。」
とさとり、それより後は、古学を学ぶようになりました。
 32さいの冬、松寺(まつでら)村(=今の西葛篭町(にしつづらまち))に住んで、“松雨亭(しょううてい)”というじゅくを開き、古学のこうぎをしました。琴所の学とくをしたってあちらこちらから多くの門下生が、集まってきました。こうして琴所の人がらや古学の道の深さが世に知れわたりました。そして、そのころ有名な学者であった湖西の中江藤樹(なかえとうじゅ)とかたをならべるほどになりました。
 琴所のひょうばんが高くなると、彦根はんからたびたび使者がきて、ふたたびはんに仕えるようにすすめました。はんにまねかれるということは、学者としての名声をいっそう高めることでもあり、しゅうにゅうの道も安定することです。またはんしゅの申し出をことわることはおそれおおいことで、なかなかできないことですが、琴所は申し出をことわりつづけました。
 琴所がえらんだのは、この寒村(かんそん)に住む人々を相手に人の道をとくことでした。松雨亭の庭に植えたまつの木にふりかかる雨の音をこよなくあいした琴所は、おとずれる村人に古学を教え、農業のしんこうやしゃかいせいさくのかいぜんに、しょうがいをささげました。
 時に元文(げんぶん)4年(1739年)1月9日、54さいでなくなりました。高宮町の徳性寺(とくせいじ)にほうむられています。

※荻生徂徠(1666年−1728年)は江戸中きの儒学者(じゅがくしゃ)で柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕え、ばくふの相談役になったこともあります。

※中江藤樹(1608年−1648年)は近江(おうみ)の国高島の人で江戸前期の儒学(じゅがく)しゃ。陽明(ようめい)学はを開き、近江聖人(おうみせいじん)とよばれています。

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直弼(なおすけ)のせいじを助けた     中川漁村(なかがわぎょそん)

学問にはげむ
 井伊直弼(いいなおすけ)のせいじを助けた数多い人の中で、中川漁村は、直弼が開国のけつだんをする時に、もっとも大きなえいきょうをあたえました。漁村という名前は、出身地の薩摩(さつま)村(=今の薩摩(さつま)町)の善照(ぜんしょう)寺が湖岸の漁(ぎょ)村にあったのでつけた名前です。つうしょうは禄郎(ろくろう)といって、おさない時に、おじの中川勘解由(なかがわかげゆ)のようしになり、中川のせいを名乗りました。父は直弼のわかいころの学問の先生である小原君雄(おはらきみお)だったので、学問をするかんきょうにめぐまれて育ちました。
 漁村は小さいころからとてもかしこい子で、遠くの村まで名前がしれわたっていました。そして、せいちょうするにつれて、いろいろな学問を身につけました。
 さいしょは、はんしの西郷(さいごう)の弟子になり、漢学の勉強をし、漢学の力がつくと次は、平尾芹水(ひらおきんすい)の弟子になって、古学の勉強にはげみました。とくに経術詩文(けいじゅつしぶん)(=中国の昔の人が書いたせいじのことや文学作品をけんきゅうする学問)については、先生といわれるまでになりました。このように、いろいろな学問をした漁村は、彦根はんの中ではじゅうような人物になっていきました。しかし、あまり出世をのぞまなかったことが、かえってみんなから親しまれ、弟子になりたいというはんしがふえました。
 朱子学(しゅしがく)や詩文を学び、頼山陽(らいさんよう)と親交を深め、長崎(ながさき)で西洋のことを学んだので、さこくろん者ではなく、開国ろんの立場をとっていました。
 天保(てんぽう)13年(1842年)彦根はんのはんせいかいかくで、はんこう弘道館(こうどうかん)のきょうじゅになりました。じゅぎょうがとてもじょうずでわかりやすかったので人気がありました。
 嘉永(かえい)3年(1850年)直弼がだい十三代はんしゅになると、漁村をじこう(はんしゅに学問をさずける学者)にしました。
 嘉永(かえい)6年(1853年)6月、アメリカのていとくペリーが来て、開国をもとめた時、ばくふはかくはんに意見をもとめました。直弼がはんしにこの事を聞いた時、漁村は進んで開国ろんをしゅちょうしました。
 「正しい人の道は、時代とともにかわっている。古いことにこだわっていてはいけない。ちしきを世界にもとめて、国力をのばすために、外国と交わろうではないか。」
 「そんなことをすれば、250年いじょうもつづいた平和な世の中がみだれる。」
などとやりとりしましたが、多くのはんしから反対されました。それでもなお
「海外のじじょうも学ばないで、さ国をしゅちょうしても国をあやうくするだけである。弓矢を持って、ぶゆうをほこる時代ではない。国を開いて外国と交わり、なかよくすべき時にきている。」
と、強く開国ろんをしゅちょうしました。
 直弼は漁村の意見をとり入れ、開国をする気持ちをかためましたが、漁村は外国のことも知らないで、さこくだと言っているはんしたちの意見にひどくふんがいし、薩摩村にとじこもってしまいました。そして、安政(あんせい)元年(1854年)10月、日本のしょうらいを心配しながらなくなりました。

※さ国は江戸幕府(えどばくふ)がけんりょくを守るためにとったせいさくで、1639年からペリーがらいこうした1853年まで、やく215年かんの国さいてきなこりつじょうたいのことをいいます。

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裁縫(さいほう)のおっしょさん     小川絹(おがわきぬ)

 小川絹は、天保(てんぽう)10年(1839年)9月9日、坂田郡西法寺村(さかたぐんさいほうじむら)(=今の鳥居本町の一部)で生まれました。弟に宇治原友三郎(うじはらともさぶろう)がいます。22さいで大堀(おおほり)村の小川助三郎(おがわすけさぶろう)とけっこんしました。絹が42さいの時に、おっととしべつしたので、絹は、たのまれるまま、近所のむすめにさいほうを教えるようになりました。6人の子どもをかかえ、農業をしながらいっしょうけんめいにがんばりました。
 絹のやさしい人がらにひかれてむすめたち(おはり子)は大堀村だけでなく、近くの村からも習いに来るようになりました。多いときには、20人ものむすめたちが色とりどりのぬのをひろげて足のふみ場もないほどでした。
 絹は、さいほうだけでなく、女としてのれいぎさほうや生き方も教え、「おっしょさん」とよばれてそんけいされました。教え子たちがひようを出し合って、大堀山にひをたてました。昭和6年(1931年)北海道にうつりましたが、まもなく92さいでなくなりました。

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彦根中学校のせつりつにつくす     井伊直憲(いいなおのり)

さいごのはんしゅ
 直弼(なおすけ)が万延(まんえん)元年(1860年)3月、桜田門(さくらだもん)外であんさつされ、はんしゅをうしなった彦根はんでは、お家をだんぜつ(彦根はんがたえること)するというめいれいが下るものと動ようしましまた。
 そこで、国家老(くにがろう)木俣清左衛門(きまたせいざえもん)は、ろうじゅう久世大和守(くぜやまとのかみ)に文書を出して、直弼の子直憲にそうぞくのきょかがもらえるようおねがいしました。
 4月になってばくふは、だい十四代はんしゅを直憲に命じて父のあとをつがせました。そして、とくに父のはたらきをほめ、さらにへんごの彦根はんしが、落ち着いて行動していることをほめました。そこで、直憲は堺浦(さかいうら)のけいびや大和騒動(やまとそうどう)にしゅっぺいしたり、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)でかつやくするなど、彦根はんのおめいを返上するためつとめました。また、直憲は、ちょうていがわにもみとめられるために、尊皇攘夷(そんのうじょうい)(=てんのうを中心にしてせいじをし、がいてきをおいはらう考え)を彦根はんの正しい考えとして、はんしの意見をまとめました。

いしんのかいかく
 慶応(けいおう)4年(1868年)2月、直憲は王政復古(おうせいふっこ)で、はんの進むべき方向をしめす文書を出しました。それには、これから彦根はんは、士(し)・民(みん)がいっちきょう力してちょうていの言われることをつつしんで受け入れ、みぶんせいどをはいしして、ぶしだけでなく農工商ではたらく人々からも人ざいを登用することを決めました。
 また、彦根はん知事(ちじ)ににんめいされると、さっそくせいじきこうの大かいかくを行いました。まず、評定(ひょうじょう)所を民政(みんせい)所にあらためて、人々のじつじょうを知ってせいじをしたり、それまでの七局せいを、政治庁(せいじちょう)・軍務局(ぐんむきょく)・文武館(ぶんぶかん)の3つにまとめてせいじを行いました。さらに、地方の名家をえらんで大そうだいと中そうだいをにんめいして、小さな問題は、それぞれの村でかいけつするようにしました。

彦根中学のせつりつ
 直憲は、廃藩置県(はいはんちけん)ではいしされたはんこう弘道館(こうどうかん)のかわりとして、明治(めいじ)9年(1876年)4月に、中学校を(後の五番町=今の本町一丁目)開校しました。
 直憲は、学校のけんせつひといじひをしゅっしし、ふそくぶんは町みんがきふをして、町みんあげて中学校をせつりつしました。ところが、せっかくせつりつした中学校が県立の学校になったため、彦根の学校と考えていた町みんは県立では人ざいがようせいできないと言って、大反対しました。
 明治(めいじ)13年(1880年)4月に開校した県立中学校は、彦根町みんの反対に合って、わずか150日間ではいしされました。そこでふたたび、五番町(今の本町一丁目)に町立彦根中学校がたんじょうしました。
 これは、新しい学問によって、自分たちの力で新時代のリーダーをようせいしようという直憲のしんねんであり、彦根はんだましいをでんとうてきにうけついで、明治せいふにたいこうしようとした彦根人のはんこつせいしんの表れでした。また、彦根はんだましいは、彦根はんし相馬永胤(そうまながたね)が明治13年に専修(せんしゅう)大学(=しりつほうりつ学校)をそうせつし、増島六一郎(ますじまろくいちろう)が明治18年に中央大学をそうせつしたことでもわかります。

※大和騒動は文久(ぶんきゅう)3年(1863年)に中山忠光(なかやまただみつ)に藤本鉄石(ふじもとてっせき)・吉村寅太郎(よしむらとらたろう)らが起こしたばくふをたおすためのさいしょのいくさで、てんちゅう組のへんともいいます。

※蛤御門の変(=禁門(きんもん)の変(へん))は元治(げんじ)元年(1864年)に長州(ちょうしゅう)はんと会津(あいづ)・薩摩(さつま)はんのれんごうぐんが、こうきょの蛤御門の近くでたたかいました。

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山田神社のさいけん    平川昌信(ひらかわまさのぶ)

 昌信は、甲斐(かい)の国に生まれ、父正重(まさしげ)について学んだのち、平田篤胤(ひらたあつたね)の門に入り学問をきわめました。
 明治(めいじ)元年よりしょ国をまわり、神社のゆいしょのちょうさや、神しょくのきょうじゅに当りました。後に鳥居本(とりいもと)にうつり、山田神社の神主になりました。そのころ、山田神社がたいへんあれはてていたので、毎月15日に村みんを集めて、「報本反始(ほうもとはんし)」をといて教化にあたりました。
 また、国学にもくわしく、神しょくの故事(こじ)にも通じていたので、湖北六ぐんの神主に故事(こじ)を教えました。ばん年、犬上けんちょうより神しょくしけんいいんににんめいされ、大阪鎮台(おおさかちんだい)だい一ぶんえいからは、神そうさいがかりを申しつけられました。
はくあいのせい神もふかく、まずしい人にはひそかに米をあたえるなど、ぜんこうを重ねていましたのでみんなからそんけいされました。
明治(めいじ)8年4月18日、64さいでこの世を去りました。

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河瀬(かわせ)小学校生みの親     広瀬愼一郎(ひろせしんいちろう)

 愼一郎は、彦根はんのぶしで、たいへん学問ずきな人でした。なかでも漢学を深く学んでいました。
 ところが、明治(めいじ)4年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)によって、しぞくとしてのとっけんやろく(しゅうにゅう)がなくなったため、河瀬村に来て住むようになりました。
 明治5年になって学せいがしかれると、地いきの人々のようぼうもあって、法蔵(ほうぞう)寺に正始(しょうし)学校をそう立し、自らきょうだんに立って、しょうがいを子どもたちのしどうにささげました。
 愼一郎は号(ペンネーム)を梅堂(ばいどう)と言い、書がたくみでした。南河瀬のぼちにあるせんぼつ者のせきひや村の家々には、愼一郎のひっせきが今ものこっています。
 大正になって、愼一郎に教えを受けた人たちの手で、しのとくをたたえるために法蔵寺けいだいに石ひがこんりゅうされました。

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青年にゆめときぼうを     石居勘平(いしいかんぺい)

漸明(せんめい)学校
 明治維新(めいじいしん)は、日本がフランスをはじめ先進国のせいどを取り入れて、きんだいてきな国家になるための出発でした。教育についても、今まで近くの寺子屋(てらこや)で手習いをしていた子どもたちが、明治(めいじ)5年に学せいがしかれると、どの子もみんな学校で勉強をすることになりました。
 彦根も小学校がつくられました。明治8年につくられた小泉(こいずみ)村の漸明学校に、訓導(くんどう)として石居勘平の一家がひっこしてきました。37さいの勘平は、大がらでやせたからだつきをしていましたが、みるからにけんこうそうでした。
 漸明学校は、1・2年生のおさない子が通う学校で、たたみにせいざして石筆と石板を使っての勉強でした。時おり勉強にあきて大きなあくびをする子がいると、「だれだ、なまけている子は」と、勘平のすごい声がして、思わずせすじがちぢみあがるほどでした。

教育こそ生きがい
 勘平は、天保(てんぽう)9年(1838年)に、上新屋敷町(かみしんやしきまち)(=今の大東町(だいとうちょう))で、ぶしの家に生まれました。青年のころは、漢学者(かんがくしゃ)田中芹坡(たなかきんば)のもとで勉学にはげんだので、のちに弘道館(こうどうかん)のきょうしになりました。
 明治4年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)で、長浜(ながはま)けんちょうの役人になりましたが、「新しい日本をきずくのは、これからせいちょうする子どもたちだ、そうだ、りっぱな日本人を育てるために小学校のきょうしになろう。」と、決心するや、けんちょうのつとめをやめて訓導になりました。

おらが村の先生
 おさない子たちが一日の勉強を終えて家路につくころ、夕日が小さな校しゃをつつんでいました。子どもたちはどの子も着物のそでをよごし、すりへったげたを引きずりながら、少し歩いてはすわりこみ、急に走り出したかと思うと、またすわりこんで道草あそびを楽しんでいました。
 勘平は、こうした子どもたちのようすをまどべから見送っていましたが、元気な子どもたちの顔にただわらっているだけでした。
 やがて日もくれて、夜のとばりがおりると、田の仕事をすませた村の青年たちが集まってきます。夜はわかものたちのために夜学を開いて、日本の文化やでんとうなどを、わかりやすく教えました。また、おくさんは、わかい女の子にさいほうを教え、長男の石居他人(いしいたひと)も、漸明学校の教しでした。このようにして、勘平の一家は、力を合わせて小泉村の教育に身をささげました。

勘平先生を守れ
 村の青年たちは、外町(とまち)にあった勘平の田を耕やしたり、家事のてつだいをしながら、勘平から少しでも多くのことを教えてもらおうとど力しました。勘平は、畑仕事のかたてまに、作物の育て方を教えたり、道を歩きながら、人の道の大切なことをときながら、いつも青年にきぼうとゆめを持たせることにつとめました。
 そんなある日、近所の家から出火して勘平の家にもえうつりました。おどろいた村人は、いそいでかざい道具やしょせきを運び出しましたが、おしいことに大半がはいになってしまいました。そこで、村人はしざいを出し合って勘平一家のために家をしんちくして、ひごろのおんにむくいました。
 それからも、小泉村の子どもを教えていましたが、大正3年(1914年)6月22日、77さいでなくなりました。はかは彦根の大雲寺(だいうんじ)にあります。

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外国語教育につくした     鈴木貫一(すずきかんいち)

洋学校を開く
 鈴木貫一(すずきかんいち)は、天保(てんぽう)14年(1843年)2月12日、武藤叶翁(むとう    )の四男として生まれ、その後、鈴木家へようしとしてむかえられました。貫一は彦根のはんしで、一見おだやかでやさしいがじょうねつかで、進んでちしきをもとめてど力しました。とくにしょ外国の文化・教育にかんしんを持ち、つねにりゅう学のこころざしを持ちつづけていました。慶応(けいおう)2年(1866年)22さいの時、きぼうがかないアメリカにりゅう学することができました。アメリカにたいざいすること2年、貫一はえい学の勉強にせんねんして、西洋のちしきを学びました。
 明治(めいじ)元年(1868年)帰国すると、日本は、これから外国語の教育を広めていくひつようがあると考え、彦根に洋学校をせつりつしようと思い立ちました。貫一は、人々に洋学校のひつようせいをせつめいし、きゅうはんしゅ井伊直憲(いいなおのり)に相談しました。
 3年の後、貫一のど力がみのって、洋学校をせつりつすることになりました。そこで、直憲に校しゃのけんせつをねがいでましたが、なかなかきぼうをかなえてもらえなかったので、貫一は自分の家(立花町長屋門跡(たちばなちょうながやもんあと)を校しゃにしました。
 明治4年正月、彦根にはじめての彦根はん立洋学校を開くことができたのです。
 貫一は明治4年4月19日、アメリカ商人であるウイルレム・グードメン(WILLAM GOODMAN)33さいをえいご学やえいぶんぽうの外国語教しとしてまねきました。また、地理・数学・物理学なども、多くの人々にせっきょくてきに教えました。そして、ゆうしゅうな人ざいをようせいすることにど力しました。

フランス代理公使
 明治5年(1872年)高崎正風(たかさきまさかぜ)大議官(だいぎかん)がフランスをしさつするとき、貫一にずいこうを命じました。貫一は洋学校のことを子の鈴木省三(すずきしょうぞう)にまかせてフランスに行き、公使かんの仕事につきました。貫一は仕事にせんねんし、ど力したかいあってフランス公使かん一とうしょきかんになりました。その後、鮫島尚信(さめじまなおのぶ)公使がなくなったので、代理公使の役につきました。貫一は、せいじつで、ねっしんに仕事をしたので、フランスの人々からもしたわれました。しかし、公使かんのざいせいもんだいで、せきにんを負ってたいかんしました。この間、鮫島尚信・森有礼(もりありのり)・上野景範(うえのかげのり)・吉田清成(よしだきよなり)などの外こうかんや西園寺公望公爵(さいおんじきんもちこうしゃく)と親交がありました。

西洋じじょうを語る
 貫一は、えい語やフランス語に通じていましたが、とくにフランス語はりゅうちょうなことばで話をしました。
 明治31年(1898年)の春、彦根に帰ると、青年に語学を教えたり、外国でたいけんしてきた西洋の様子や、アメリカ・フランスのちしきを広くつたえました。
 その後、大阪(おおさか)にいじゅうし、さらに京都にうつりすんで大正3年6月29日京都の田中村(左京区)で病死しました。72さいでした。彦根上河原町(かみかわらまち)(=今の河原1丁目)大雲寺(だいうんじ)にほうむられています。

※西園寺公望(1849年−1940年)は京都の人でせいじ家。明治法律学校(めうじほうりつがっこう)(=今の明治大学)をそうせつ。伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣(ないかく)の文部大臣(もんぶだいじん)になりましたが、のちに内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になりました。

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「大藪(おおやぶ)学校」のそうせつ     堀勘平(ほりかんぺい)

「むらにふがくの戸なく、家にふがくの人なからしめる」これは、明治(めいじ)5年にこうふされた学事奨励書(がくじしょうれいしょ)のことばです。北青柳村(きたあおやぎむら)(=今の大藪町)の堀勘平はいつも息子の勘治郎(かんじろう)に学問の大切さをといていました。
 自らも、村に学校をつくりたいと考え、明治8年、みん家をかり校しゃにして、「大藪学校」をそうせつしました。そして、校しゃを新ちくするため、しき地さがしにど力しました。村人の反対や多くのしょうがいをのりこえて、ついに、明治11年、ねんがんの新校しゃをたてました。そして、勘平は、学むいいんとして、学校のうんえいにつとめました。
 明治25年、北青柳(きたあおやぎ)小学校が新せつされると、校しゃは、神明神社(しんめいじんじゃ)けいだいにいちくされ、公みんかんとして、使われました。その後、昭和56年、103年間もの長い間、村の教育に役立ってきたたてものも、古くなったので、こわされました。

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教育のはってんにつくす     馬場新三(ばばしんぞう)

 新三(しんぞう)は、嘉永(かえい)元年(1848年)5月に、あさ商人利助(りすけ)の子として高宮に生まれました。本ずきな子どもで、田中芹坡(たなかきんば)について学び、詩や文をよく作って、霖峯(りんほう)と名のっていました。
 明治(めいじ)5年(1872年)3月、学せいのりょうふによる高宮小学校のせつりつには、そうりついいんになって北川忠四郎(きたがわちゅうしろう)らにきょう力し、教しとしてもかつやくしました。
「社会をはってんさせるには、国みん教育をさかんにしなければならない。」と考えて、町内の青年たちのために『晴耕雨読会(せいこううどくかい)』と『英語夜学会(えいごやがくかい)』を作り、自ら、中心になって活動しました。
 また、やはた商業学校の開校のために、浅見又蔵(あさみまたぞう)、西川貞次郎(にしかわていじろう)らとともに活動しました。
 ばん年は京都でくらし、大正7年(1918年)になくなりました。

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教育にじょうねつをもやす     辻勝太郎(つじかつたろう)

 だい六代・だい九代高宮小学校の校長をした勝太郎(かつたろう)は、前後、23年間、高宮のためにつくしました。「愛童楽職(あいどうがくしょく)」(子どもたちをあいし、仕事を楽しむ)ということがかれのしんねんで、自分にふさわしい仕事として子どもの教育にはげみました。勝太郎は、日米通商条約調印(にちべいつうしょうじょうやくちょういん)の勅許(ちょっきょ)問題がおこっていた安政(あんせい)5年(1858年)3月29日に、父辻平内(つじへいない)、母末(すえ)の長男として生まれました。おさないころは、平内から四書五経(ししょごきょう)(大学・中庸(ちゅうよう)・論語(ろんご)・孟子(もうし)・易経(えききょう)・書経(しょきょう)・詩経(しきょう)・礼記(らいき)・春秋(しゅんじゅう))を習い、はんこう弘道館(こうどうかん)に入ってからは、学問とぶげいを身につけました。
 明治(めいじ)12年(1879年)滋賀(しが)県しはん学校高等しはん学かに入学し、そつぎょうご、しはん学校訓導(くんどう)ににんぜられました。明治24年(1891年)5月には、だい六代高宮小学校長になり、後、犬上ぐんし学、京都府与謝郡(きょうとふよさぐん)し学、そして、明治34年(1901年)11月に、ふたたび、だい九代高宮小学校校長になってから、大正5年(1916年)11月、たいしょくするまで高宮小学校長として教育のためにつくしました。
 その間、明治41年(1908年)文部大臣(もんぶだいじん)牧野伸顕(まきのしんけん)より、長年にわたって小学校の教育につくしたこうせきで、選奨(せんしょう)を受けました。そして、明治43年(1910年)2月11日に高宮小学校は、文部大臣よりゆうしゅう校としてひょうしょうされました。
 明治44年(1911年)には、小学校長としてはつの奏任官(そうにんかん)(明治憲法(めいじけんぽう)下で、内閣(ないかく)が天皇(てんのう)にすいきょしてにんめいする)たいぐうを受け、大正2年(1913年)には、賞勲局(しょうくんきょく)から勲八等瑞宝章(くんはちとうずいほうしょう)をもらいました。また、ざいにんちゅうに、高宮小学校えんかくしをへんさんして学校のれきしを明らかにしました。このきちょうなえんかくし上下二かんは今もたいせつにほぞんされています。
 勝太郎は教育の根本を「誠実(せいじつ)」「忍耐(にんたい)」「質素(しっそ)」の三つにして、教育のために全力をつくしました。また、学校教育だけでなく、ろう人会や父兄会、それに母姉(ぼし)会やしょじょ会・ほごしゃ会などをきかく・そしきして、高宮町のきょうど教育のためにど力しました。
 昭和47年(1972年)高宮小学校そう立100しゅう年と、てっきんの新校しゃかんせいをきねんして、どうそう会ならびに高宮町の人々が「校歌のひ」をたてました。じょまくしきには、彦根市長や滋賀県知事(しがけんちじ)もさんれつしました。 

人はまことをもととして
怒(いか)りをしのび苦(く)に耐(た)えて
こころゆたかにつとめなば
いかなることもなりぬべし
名もたかみやのしろのあと
ならしてたてしまなびやの
千歳(ちとせ)動かぬいしずえを
こころにすえてまもらまし

 校歌は、辻勝太郎の作し。作曲は、入江好次郎(いりえこうじろう)で今も歌いつづけられています。校長室には勝太郎のちょしょが、たすうほかんされています。だいひょうてきちょしょ『現代教育の革正すべき一針(げんだいきょういくのかくせいすべきいっしん)』には、「教育は人に見てもらうためのものではない」ことをといています。
 たいしょくごは、京都市下鴨(しもがも)でしずかによせいを送り、昭和5年(1930年)7月23日73さいでなくなりました。

※訓導=小学校の先生のしょくめいでげんざいでは教ゆとよびます。

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高宮村せいにつくした     北川予四郎(きたがわよしろう)

 嘉永(かえい)2年(1849年)高宮村の塩谷(しおたに)家に生まれた予四郎(よしろう)は、高宮本じんの北川家のあとつぎになりました。
 がまん強く、どんなこんなんにもくじけない心の持ち主で、この心は後にこころざしをとげさせる原動力になりました。
 明治(めいじ)5年(1872年)に高宮小学校がそう立されると、家を枝村(えだむら)の小菅陸郎(こすがりくろう)にゆずって、友人とともに教しになり、子どもたちを教育しました。
 後に愛知(あいち)県で、海西ぐんのぐんちょう(げんざいの市長)になりました。明治31年(1878年)高宮村の人たちの強いねがいによって、ききょうし、高宮村の村長になりました。そして敏満寺(びんまんじ)山のざいさん区のたいしゃくけいやくをするなど10年いじょうにわたってかいぜんにど力しました。
 大正7年(1918年)に病気でなくなりました。

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青年だん育ての親     山村権之助(やまむらごんのすけ)

 権之助は慶応(けいおう)3年(1867年)9月に稲枝(いなえ)町本庄(ほんじょう)のきゅう家に生まれました。ようしょうより学問をこのみ、小学校をそつぎょうご、きょうりの学校の助手になって教べんをとりました。その後、戸長や村役場のりいん、そして、葉枝見村(はえみむら)村会ぎいん、村長、県農会ぎいんと、つぎつぎに地方の公しょくをれきにんしました。
 大正5年、あらゆる地方の公しょくから身を引くと、つぎは、青年だんのだん長になって、かいぜんに尽しました。
「村のはってんは青年だんから」「新しい日本は青年の手で」というのが権之助のしんねんでありました。新しいきかくとして、今までの「夜学」をはいしして「朝学」にしました。これは、毎朝4時から2時間ずつ学校のこうどうに集まって勉強し、しゅうとくした学科がかくじつにこうかをあげるようにしたので青年のしゅっせきが多くなりました。また、権之助は、青年のスポーツしんこうにも力を注ぎ、すもうのしょうれいにはしざいを投げだしました。

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命がけで盲児(もうじ)のために     山本清一郎(やまもとせいいちろう)

ぜつぼう(ぜつぼう)の日
 明治(めいじ)30年(1897年)のことです。りょうがんが見えなくなる「網膜剥離病(もうまくはくりびょう)」というしんだんを受けた清一郎は、だんがいからつきおとされたような思いでした。とつぜんおそってきた目の病気は、しつめいするほど重いものでした。17さいというわかさで、生きるのぞみをうしなった清一郎は、この世の終わりがきた思いで、毎日々々なげき悲しみました。
 それから2年後、京都市立盲亞員(もうあいん)に入学すると、人がかわったように勉強にはげみました。そして、そつぎょうしてから盲亞員の教しになりました。
 ある日のことでした。じゅぎょうを終えてしょくいんしつに行くと、早稲田(わせだ)大学の好本督(よしもとただす)先生と院長の鳥居(とりい)先生が、清一郎をまっていました。
「山本先生、あなたは滋賀(しが)県に盲児(もうじ)のための学校をつくってみる気はありませんか、イギリスでは、盲児も学校をそつぎょうして、社会のためにはたらいていますが、日本では、盲児のための学校がほとんどないのでこまっています。」
「どうでしょう、学校をつくるとしたら彦根がよいと思うのですが?」
思いがけない話におどろいた清一郎は、「そうですね、考えておきます。」と、気のない返事をしたまま月日が流れていきました。

盲児に学校を
 盲児の教育にすっかりじしんをなくした清一郎は、気弱になってきょうりの甲賀郡寺庄村(こうかぐんてらしょうむら)(今の甲南町)に引きこもってしまいました。そして、ため息をつきながらおさないころの楽しい日々を思い出しては、なみだにくれていました。
 明治41年の正月もすぎて早や3日の朝になりました。いつものように、外へ出て、つめたい水にふるえながら顔をあらっていると、ふと鳥居院長のことばを思い出しました。「彦根に盲児のための学校を」はっと、われれに返ったように心が開けると、さっそくしたくをして大津(おおつ)に行きました。
「そうだ、どんなに苦しくても盲児のために学校をつくるんだ。」
心にかたく決心した清一郎は、大津市肥前(ひぜん)町の安養(あんよう)寺に出向いて谷諦念(たにていねん)じゅうしょくからお金あつめのほうほうを教えてもらいました。そして、甲賀郡長のしょうかいじょうを持って、1月15日に彦根の中嶋宗達(なかじまそうたつ)いしをたずねました。

盲学校(もうがっこう)そうせつの父
 彦根町長鯰江與惣次郎(なまずえよそじろう)に出会った清一郎は、「どうか盲児のために学校をたててください。」とおねがいしました。また、県知事(ちじ)やぎ会のぎいんにもおねがいして、中嶋宗達いしをはじめ速水正伯(はやみせいはく)しんきゅうしなど多くの人々にきょう力をたのみました。そして、あまりのねっしんさに心をうたれた人々が、お金を出し合って、ようやく、3月23日に、外馬場町(そとばばちょう)のみん家をかりて盲学校を開き、私立訓盲院(しりつくんもういん)のかんばんをかけることができました。つくえや黒板は、東小学校(今の城東(じょうとう)小学校)からかりてきました。教員は速水正伯しのほか、市内のお医者さんがほうしで引き受けてくれることになりました。
 5月4日、ようやくねんがんの盲学校(私立訓盲院)に、4名の子が入学してきました。しかし、学校のけいえいは苦しくて、しょだいの院長になった清一郎は、たいふじんと夜おそくまできふをつのって家々を歩きまわりましたが、食べ物も買えないほどまずしい生活のれんぞくでした。
 =昭和12年5月7日、三重苦のせいじょ、ヘレン ケラーじょしが県立彦根盲学校をほうもんした。=
 しかし、こうしたくろうもみのって昭和3年には県立盲学校となり、たいしょく(昭和23年)するまでしょうがいを盲教育と盲人ふくしのためにささげました。

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しょうがいしゃにつくす     西原正則(にしはらまさのり)

 正則は、明治(めいじ)31年(1898年)熊本(くまもと)で生まれました。子どものころは、むくちでごうじょうでした。小学校のころけんどうの練習で、いくらたたかれても「いたい」とか「まいった」と、よわねをはいたことがありませんでした。大正15年(1926年)東京聾唖(ろうあ)学校しはんぶに入学し、しょうがいじの教育にかかわることになりました。その後、はいせんのため熊本に帰りました。
 その後、友人から、教育かいふっきをすすめられ、滋賀県立盲学校(しがけんりつもうがっこう)にきんむしました。滋賀では盲教育のかいぜんとはってんのため、おもうぞんぶんにはたらきました。そして青い鳥の会をけっせいした時、盲精薄者(もうせいはくしゃ)のしせつづくりを考えましたがじつげんしませんでした。でも多くの人々のおうえんやきょう力を受けてようやく、昭和37年に、世界中どこにもない重度盲精薄児(じゅうどもうせいはくじ)せんもんのしせつをつくりました。

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