寺子屋教育

 彦根はんでは、早くからりょうみんの教育に力を入れました。とくにだい十一代はんしゅ直中(なおなか)は、寛政(かんせい)8年(1796年)、多くの寺子屋の中から13か所をえらんでししょうになる人を決めました。その上、教えるないようも同じにしました。また、りょう内の村々にある寺子屋をほごして教育をさかんにしました。
 寺子屋に寺入り(入学)するのは、男の子が7・8さいで、女の子は6・7さいでした。それからやく2年間から5年間、長い子で9年間ぐらい勉強をつづけました。ししょうは、ほとんど町人で、代々ししょうをしていましたが、ほかに、そうりょ・ぶし・いし・神主などもししょうになりました。
 子どもたちは、毎日寺子屋に通っていましたが、ほとんどししょうと1対1で勉強をしました。そして、午前と午後に1回ずつ、みんなで一せいに声を出して本を読みますが、時間の大部分は習字の勉強でした。さんじゅつは毎日15分ぐらい九々の練習や計算の練習をしました。そのほかそろばんも練習しました。
 一つの寺子屋には、20名から多い所で60名ぐらいの子どもが通っていましたが、ししょうの悪口をいったり、いたずらをしてししょうからしかられると、家でも、父母から同じようにしかられたので、子どもたちは、ししょうの教えをよく守っていました。このようにしてりょうみんの教育は、たいへん進んでいました。またりょう内には、いくつかしじゅくがあって、学問を教えていました。

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こうこうむすめ

 作次(さくじ)には、3人のむすめがいました。家がまずしくて、農業をしながらもちを売って生活していました。父、作次は天明(てんめい)6年(1786年)4月に病死し、よく年の夏には母も病気になりました。
 母は、むすめたちをまくらもとによんで、「わたしの家にはしゃっ金があり、何とか返さねばなりませんが、おまえたちがおさなくて女ばかりなので返せないかもしれない。」と言ってひどく悲しみました。
 きのは心をこめて母にいいました。
「姉妹なかよくして少しずつでもしゃっ金を返すようにがんばりましょう。」
 母はうれしそうにうなづき天明8年(1788年)4月14日の朝になくなりました。
 いらい、きのたちは、もちをつき、あさをおるなどしてくらしました。また、ききんの時には、自分たちはそしょくしてまで、米をこまっている人のきゅうじょにまわしました。寛政(かんせい)2年(1790年)彦根はんよりひょうしょうされました。

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彦根のしょうがいしゃしせつとほうしかつどう

 昭和38年(1963年)4月、お年玉つき年がはがきのきふ金2000万円でけんせつされたさざなみ学園は、びょうきょじゃくの子どものためのしせつで、しょだいの園長は津村芳男(つむらよしお)でした。
 さらに、昭和52年4月には、したいふじゆうじ親の会によって、たんぽぽきょうどう作業所が賀田山町(かたやまちょう)にかいせつしました。これは、しょうがいしゃの作業所ですが、げんざいでは、あけぼの・あじさいの家・かたつむりなど、つぎつぎに作業所がつくられています。
 ところで、しょうがいじやしょうがいしゃへのボランティア活動を行う会“いぶきの会”が、昭和44年に県立短期大学の学生によって始められました。つづいて、昭和52年には、滋賀(しが)大学の学生による“三輪車(さんりんしゃ)の会”がつくられて、ほうしかつどうが行われています。
 そのほか、紙風船の会や手話サークル・点字の本を作るサークル・ろう人の世話をするサークルなど、たくさんの人々が、しゃかいふくしのためにほうしかつどうをしています。 

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