切り通しの坂道を守る     吉田久三郎(よしだきゅうざぶろう)

久三郎(きゅうざぶろう)の人がら
 久三郎は吉田久三(よしだきゅうぞう)の長男として鳥居本(とりいもと)に生まれました。おさない時から、友だちのめんどうを見たり、自分のおやつを分けてあげるなど、人を思う心のやさしい子として近所のひょうばんでした。
 そのころ、鳥居本は中山道(なかせんどう)の宿場町(しゅくばまち)としてにぎわっていました。しかし、日用品は、彦根の町まで行かなければ買えませんでした。
 当時は、中山道を、小野・原を通ってまわって行く道と、佐和山(さわやま)の切り通しとよばれる所をこえて行く近道とがありました。近道を通ると、30分ほど早く彦根の町に行けるのですが、急な坂道でした。車馬の通行はむりで、とくに大雨の後など大きな木がたおれたり、深いみぞができるなど、歩くのもたいへんこんなんなときもありました。

切り通しを守る
「この間の風雨はきつかったなあ。切り通しはしばらく通れないぜ。」
「小野・原まわりでいく方が早いぜ。」
などの会話が村のあちこちで聞かれました。ところが、村の人たちは生活のことでいそがしいため、切り通しの道ぶしん(道なおし)などだれも考える人はいませんでした。
 久三郎ははたらきもので、人のためになることをやり通す人でしたので仕事の合間をみては、切り通しの道ぶしんをつづけました。
 通る人たちは、こつこつと一人で道ぶしんをする久三郎を横目で見ながら、かんしゃはしているもののだれひとりとしててつだう人はいませんでした。けれども、久三郎はそんなことに気にもとめず、自分の道のように切り通しをあいし、切り通しを守りめんどうをみるのでした。
 冬になると雪がつもって、歩く所もわからないほどでした。その上、キツネやタヌキが出ることもあって、夜の通行には、久三郎に助けをもとめにくる人がたくさんいました。そんな時、久三郎は心よくおくりむかえをしたので、多くの人から「切り通しの久三郎」とよばれてかんしゃされました。

農業のしんこうにつくす
 久三郎は、農業にもねっしんで、米とやさいだけでは、これからの農業はなりたたないと考え、もも畑ともうそう竹のさいばいに取り組みました。
 京都で、ももともうそう竹のなえを買うと、一週間がかりで持ち帰り、鳥居本に広めようとしました。
 ももばたけは、数年つづきました。しかし、きこうや土地が合わないことや、がいちゅうのひがいであきらめましたが、もうそう竹は、土地に合って、今では、鳥居本のとくさんひんになりました。たけのこのきせつになると、鳥居本のたけのことしてかくちの店に出荷されています。

知事よりひょうしょうを受ける
 このように切り通しを守りつづけ、村の人々のためにど力した美しいぎょうせきと、農業のしんこうにつくしたことが、鳥居本はもちろん、近くの村々にもつたわって、明治(めいじ)39年1月4日、県知事鈴木定直(すずきただなお)よりひょうしょうされました。今も鳥居本には美しい心ともうそう竹がしげっています。

※もうそう竹は竹のしゅるいではもっとも大形のもので、高さが10メートルにもなります。たけのこは食用になります。げんさんは、中国の江南(こうなん)地ほうとされています。

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彦根城(ひこねじょう)にさくらを     吉田繁治郎(よしだしげじろう)

繁治郎のゆめ
 さくらの花は昔から、わたしたち日本人の心にさきつづけた花です。
「古いじょう下町彦根の味をたいせつにし、大きくのびる町にするには、かんこうの町としてはってんさせていくのが、いちばんよいのではなかろうか。そうだ、皇太子(こうたいし)のたんじょうのきかいに、彦根城いったいにさくらの木を植えて、さくらの彦根城にしよう。」と、昭和8年(1933年)46さいの吉田繁治郎は彦根のしょうらいについて、こんなゆめをえがきました。繁治郎はさっそく町の家を1けん1けん歩きまわって、さくらのなえぎ1000本を買うためのきふきんを集めました。それも、仕事を店の者やつまにまかせて、夜おそくまで足をぼうにして歩きました。
 そんな繁治郎に対して、集めた金を自分のものにしているとうわさする人や、きょう力しているように見せかけて、かげでじゃまをする人もいました。しかし、繁治郎はくじけませんでした。こうして2か月かかって、ようやく当時の金がくにして1200円という大金を集めることができたのです。

さくらとともに
 昭和9年2月、繁治郎は、そめいよしのさくらのなえ木1000本を買い入れました。しかし、ざっそうがおいしげるしろのまわりのかたい土地になえぎを植えるのは、たいへんな仕事でした。人ぷもほんの数名しか集まってくれませんでした。さくらのなえ木の植えつけは、冬のうちにすませてしまわないと、木々がめをふく春にはうまく根づいてくれません。
「ぐずぐずしていては、せっかく買いもとめたなえ木が根づかなくなって、今までのくろうも水のあわになってしまう。」
こう考えると、繁治郎は、もうじっとしていられなくなりました。当時、かれはすしやを営んでいましたが、店のことや家のことは、いっさいつま・きみにまかせて、自分の手でなえ木を植えにかかりました。そんな繁治郎に対してきみは、いつも細かい気づかいをしながらはげましました。
 こうして、繁治郎が自分の手で、植えたさくらは、百数十本にもなりました。
 さくらのなえ木は、植えればそのまますくすくと育ってくれるものではありません。次の日から、繁治郎は、さくらとともに生きる人生が始まったのです。
 1000本もあるさくらのなえ木いっぽんいっぽんを見て回り、たおれかけている木を見つけると直したり、葉についたがいちゅうまでとりのぞいて歩くのですから、じつにたいへんな仕事でした。
 繁治郎のど力がむくわれて、さくらの木はぐんぐん育っていきました。そして、春になると美しい花で彦根城を色どるようになりました。
彦根町は、昭和12年(1937年)2月11日に市せいがしかれて、彦根市になりましたが、市では「さくらの彦根城」をかんこうの名所として全国にせんでんしました。
 せんちゅう・せんごの苦しい生活がつづく中でも、春がくれば彦根城のさくらは美しくさきました。そして、あれはてた人々の心をなぐさめてくれました。
「おきみ、お前にはほんまにくろうをかけたなあ。すまんかったなあ。」とさくらを見て回るたびに、繁治郎はすでになくなっていたつまに礼を言うのでした。
 今も、雲かとまごうさくらの花がすみの中に、繁治郎のまごころはいきつづけているのです。

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砲術(ほうじゅつ)のそうししゃ     田付景輔(たづけかげすけ)

田付城主(たづけじょうしゅ)
 田付兵庫介景輔(たづけひょうごのすけかげすけ)は、田付城主をつぎました。田付城はげんざいの南三ッ谷町にありました。父景澄(かげすみ)は、近江(おうみ)の国のしゅごしょくとしてせい力を持っていた佐々木六角氏(ささきろっかくし)につかえていましたが、智(ち)と勇(ゆう)をそなえたかつやくで、六角しの七けつの一人に数えられていました。景輔もまた、父におとらずせんじゅつにすぐれ、弘治(こうじ)・永禄(えいろく)・元亀(げんき)の間(1555年−1572年)六角しを助けてめざましいはたらきをしました。

砲術のそうぞう
 わが国にはじめててっぽうがつたわったのは、天文(てんぶん)12年(1543年)のことでした。種子島時堯(たねがしまときたか)は、ポルトガル人が持ちこんだてっぽうのい力におどろき、かしんにしようほうとせいぞうほうを習わせました。そして、足利(あしかが)しょうぐんにけんじょうしたところ、しょうぐんは、めずらしいとびどうぐに強いかんしんをしめして、近江守護職(おうみしゅごしょく)・六角義秀(ろっかくよしひで)にてっぽうのせいぞうを命じました。義秀は当時、かたなかじとして有名だった国友村の鉄匠(てっしょう)にもさくさせました。鉄匠たちのど力によって、てっぽうがつたわってからわずか数年の後、国さんのてっぽうがたいりょうに作られるようになりました。そしててっぽうをせっきょくてきに取りいれた織田信長(おだのぶなが)のほごによって、国友村のてっぽうづくりは、さらにはってんしました。
 六角義秀につかえていた景輔は、早くからてっぽうを手に入れ、砲術のおうぎをきわめました。そして、田付流となづけて、近江(おうみ)の国のしはんとして名声を高めました。ところが、天正(てんしょう)元年(1573年)9月4日、天下とう一をめざす織田信長のこうげきを受けふんせんむなしく、ついに田付城はらくじょうして、多くのさむらいやしきやがらんが、ことごとくはいになってしまいました。景輔はかろうじて伊勢(いせ)の津(つ)(=三重県)にのがれましたが、その後、ろう人のまま一生を終わったとつたえられています。
 さて、この田付城は、田付小孫太宗重(たづけこまごたむねしげ)が、長暦(ちょうりゃく)3年(1039年)に近江国(おうみのくに)国司(こくし)佐々木成頼(ささきなりより)の命を受けて、三ッ屋がおかにちくじょうしたのがはじまりであり、それより500年あまり湖へんのまもりとしてぶいをかがやかせたのですが、この時ついにめつぼうしてしまいました。

ばくふてっぽうかた
 景輔はこの世を去りましたが、父のひじゅつを受けついだ長男四郎兵衛景規(しろうべえかげのり)は、福島正則(ふくしままさのり)(=豊臣(とよとみ)がたのぶしょう)にのぞまれて3000石で仕え、安芸(あき)の広島に住みました。福島家がだんぜつした後も、砲術のうでを買われた景規は、江戸(えど)ばくふにめされ、ばくふのようしょく・てっぽうかた(ほうじゅつやてっぽうのせいさくほぞんをとりしきる江戸ばくふのやくしょく)になりました。景規は砲術しはんやくとして、田付流の砲術をかんせいさせ、稲冨(いなとみ)流とともに、国内に広くその名をとどろかせました。その後、しそんは、代々おおづつ役として砲術しはんをつとめました。

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自走車の発明     平石久平治(ひらいしくへいじ)

彦根のいち
 久平治は、彦根はん大津御蔵奉行(おおつおくらぶぎょう)というようしょくにありながら、少しの時間もむだにせず天文暦学(てんもんれきがく)をけんきゅうし、享保(きょうほ)9年(1724年)29さいの時、「新製日本天文分野図(しんせいにほんてんもんぶんやず)」をつくりあげました。そして、これをもとに地球上での彦根のいちをそくていしました。すぐれた地図もかんそくきかいもなかったころです。苦心に苦心を重ねたすえ、彦根中心ぶのいちを「北極出地(ほっきょくしゅっち)35度30分」と決めました。それから100年ののち、文政(ぶんせい)年間に日本ではじめて全国をめぐり、日本地図を作った伊能忠敬(いのうただたか)という人が彦根ふきんのかいどうをそくりょうした時、彦根のいちを35度16分としました。これは久平治のそくていちとあまりちがわないことから、いかに久平治のさいのうとぎじゅつがすぐれていたかがわかります。

生い立ち
 久平治は元禄(げんろく)9年(1696年)弥右衛門繁清(やえもんしげきよ)の子として生まれ、ようみょうは作之介(さくのすけ)、後に時光(ときみつ)とあらためました。また、そふ重好(しげよし)の姉(大光院(だいこういん))はだい四代はんしゅ直興(なおおき)に仕え、だい八代はんしゅ掃部頭直定(かもんのかみなおさだ)の母になりました。
 久平治はおさない時から学問がすきで、20さいごろ、京都に行って、和算数学のそといわれた関孝和(せきたかかず)のこうてい中根元珪(なかねげんけい)の弟子になりました。そして、天文暦学(てんもんれきがく)や和算数学の勉強にはげみ、ついにしの代わりをするまでになりました。
 28さいのとき「皇極運暦(こうぎょくうんれき)」という本をあらわしました。じつげんはしませんでしたが、ばくふもこれをもとにこよみのだいかいかくをしようとしたくらいです。

自走車の発明
 そういくふうにすぐれ、人一倍どりょくした久平治は、江戸(えど)で百姓門弥(ひゃくしょうもんや)の考えた「陸船車(りくせんしゃ)」のしりょうを手に入れました。さっそく久平治は「よし、おれにだってー」とせっけい・せいさくにとりかかりました。作ってはこわし、また作りなおして、やっと仕上げ、「陸舟奔車(りくしゅうほんしゃ)」と名づけました。37さいでした。動力は何かはひみつになっていますが、たぶん足ふみ式と思われます。でもカジはぜんりんでじゆうじざいにとれ、スピードも時速で3里半(13キロ)登り坂もぐんぐん登ったといわれます。かごや荷車、それに牛馬の時代です。人々はきっと、おどろいたことでしょう。
 1769年、フランスのキュノーが蒸水式自走車(じょうすいしきじそうしゃ)を作ったのが近代自動車のそといわれていますが、これより数10年も前に久平治の作った自走車こそ自動車のがんそになるのですが、おしいことに、この発明も当時のほうけん社会では受け入れられなかったようです。

多くの書物
 学問にはげんだ久平治はたくさんの書物をあらわしています。天文学(てんもんがく)や暦学(れきがく)、数学のほか、医術(いじゅつ)・軍学書(ぐんがくしょ)・七曜暦(しちようれき)・月蝕(げっしょく)のさんしゅつほう・柔術書(じゅうじゅつしょ)・馬術書(ばじゅつしょ)などそうすう376さつ、それに、はんのきろくやぶぎょうしょのきろくなど148さつをのこしました。久平治は明和(めいわ)8年(1771年)8月、76さいでこの世を去りましたが、その子左源次(さげんじ)がこの書物を、長松院(ちょうしょういん)のけいだいに三重のてっとうをたててその中におさめました。とうはやく8メートルぐらい、書物はきりのおけに入れました。ちょうど、今のタイムカプセルです。大正3年(1914年)にちょうさのためとり出し、横浜(よこはま)に住んでいたしそんの人がほかんしていましたが、大正12年(1923年)の関東大震災(かんとうだいしんさい)でほとんどがやけてしまいました。しかし、ほんの一部と下書きがげんざい彦根市立としょかんに「平石文書(ひらいしもんじょ)」としてのこっていることはふこうちゅうの幸いです。

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産科(さんか)・賀川流(かがわちゅう)をたてる     賀川玄悦(かがわげんえつ)

はじめてのしゅじゅつ
 長屋(ながや)の大工が、「先生、たいへんだ。おっかあの命があぶない。てきくだされ。」と、玄悦の家へかけこんできました。玄悦がやくしゅばこをかたてにかけつけてみると、にょうぼうがなんざんで苦しんでいるまっさい中でした。そばには、自分の手に負えないと見てとったのか、さんばが青ざめていました。先ほどからきとうしがいのっていたらしく、にょうぼうのひたいにはふだがはられていましたが、もうきとうしもさじを投げたのか、すがたを消していました。しんさつしてみると、ふつう頭からうまれてくるはずのあかんぼうが、手やうでの部分を先に出し(横産露手(おうざんろしゅ))すでに息がたえているようでした。まだ医学がじゅうぶんはったつしていなかった江戸(えど)時代の中ごろでは、このようなむずかしいおさんの場合、おまじないのおふだをはったり、きとうしがじゅもんをとなえたりするていどで、手のほどこしようがなく、母子もろともに命をうしなうことは、めずらしくなかったのです。
「先生、なんとかおっかあの命を助けてやってくれ。おっかあに死なれると、この三人の子どもらが、母なし子になっちまうんだ。」
と、大工は手をすり合わせてたのむのでした。母親の顔からはすでに血の気がうせひんしのじょうたいでした。それまでじっとうでぐみをして考えこんでいた玄悦は、決心するとさおばかりの鉤(こう)で、しじの取り出しにかかったのです。そして、半分命はないものと思われていた母親の命をすくったのです。時に賀川玄悦、40さいのころのできごとでした。

正常胎位(せいじょうたいい)の発見
 玄悦(げんえつ)は元禄(げんろく)13年(1700年)彦根はんし三浦長富(みうらながとみ)の長男として生まれたが、せいさいの子でなかったため、生母の里(日野(ひの)町とも浅井(あざい)町ともいわれている)へ帰り、賀川のせいを名のるようになったのです。子どものころは農業をてつだっていましたが、心の中では「自分は彦根はんしの子だ。このままで終わるものか。」と、心に決めていました。
 こころざしを立てて京都に出た玄悦は、一貫町(いっかんちょう)に落ち着きました。そして古着を買い集めて生計を立てていましたが、「いつの日かはんしの子としてはずかしくないひとかどの人物になってやるぞ。」という意気ごみをすてませんでした。それで、昼は生計のため古着を売り、夜は医学の勉強をしていましたが、古着をはかる商売道具のさおばかりの鉤でたいじをとり出したことをきっかけに産科のけんきゅうを重ね、ついに産科医術(さんかいじゅつ)(=母体をすくうため外科(げか)てきなほうほうでたいじをとり出す)をとり入れた産科賀川流のそうししゃになったのです。
 玄悦の名声が広がると、宮中にまねかれて中宮(てんのうのきさき)のおさんに立ち合ったり、徳島阿波藩(とくしまあわはん)のおかかえいしになったりしました。また、その門をたたく弟子もたくさん集まりました。しかし玄悦はまずしい人のために一貫町をはなれず、おおばんこばんをつんでたのみにくる金持ちより、まずしい人のめんどうをよく見たのです。玄悦は「子玄子産論(しげんしさんろん)」に産科しゅじゅつのほうほうや賀川流についてのべていますが、中でも「正常胎位(せいじょうたいい)(=たいじが頭を下にして子宮に宿っていること)の発見」は、「全身麻酔(ぜんしんますい)(=華岡青洲(はなおかせいしゅう))」、「尿濾過説(にょうろかせつ)(=伏屋素狄(ふせやそてき))」とともに、わが国における近代医学の三大発見といわれています。
 このようにして、玄悦のもとには多くの弟子が入門して産科の勉強をしました。そして、代々産科医(さんかい)を開業する人もいました。

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神のあいをしんじた名医     中嶋宗達(なかじまそうたつ)

ヘボンとともに
 中嶋宗達は天保(てんぽう)11年(1840年)1月25日、坂田郡大原村小田(さかたぐんおおはらむらやないだ)(=今の米原市小田)の堀兵衛(ほりひょうえ)の長男として生まれました。おさないころからかしこい子で、14さいのとき医学をこころざしてらん学いの三浦北庵(みうらほくあん)についてらん学を学び、西洋医学にかんしんを深めていきました。そして文久(ぶんきゅう)3年(1863年)23さいのとき、彦根はんいの九代目宗達(後に宗仙(そうせん)とかいめい)にのぞまれて中嶋家のようしとしてむかえられ、つづいて25さいのとき、井伊家(いいけ)のおくいしになりました。
 大政奉還(たいせいほうかん)によるこんらんきのとき、27さいで横浜(よこはま)にりゅう学、ヘボン式ローマ字のそうししゃとして知られるアメリカ人医しヘボンのもとで西洋医学を学びました。その間、ヘボンからは、たいへんしんらいされました。そして、キリスト教のえいきょうも強く受けました。明治(めいじ)4年(1871年)7月、廃藩置県(はいはんちけん)によって彦根はんがなくなると、宗達はヘボンのもとでけんしゅうをつづけることができなくなったので、東京のこうじ町で医院を開業しました。三浦北庵かららん学を学び、父からは漢ぽう医学を学び、さらにヘボンについて西洋医学をけんしゅうした宗達は、当時、ゆたかなちしきとぎじゅつをそなえたいしとして有名になりました。また、はじめてゴムかんを使ったちょうしんきを発明して、せんばいとっきょをとったこともあります。

はじめてのさんびか
 明治(めいじ)9年(1876年)父宗仙がなくなったので彦根に帰り、医院を開業しましたが、医やく分業たいせいのしんりょうはたちまち有名になりました。また、当時大阪(おおさか)から西洋医学を学んで帰っていた青年医し、樋口三郎(ひぐちさぶろう)とともにキリスト教のふきょうをはじめました。とうしょは強い反発を受けましたが、ねっしんに広めたので、わずか3年後には多くのしんじゃが集まって、彦根キリスト教会をそうりつするまでになりました。同年には彦根さいしょのオルガンがこうにゅうされ、さんびかが流れました。
 当時、きょうかくの親分としてひじょうなせいりょくをもっていた三谷岩吉をかいしんさせて、熱海(あたみ)のおんせんをぶんせきしたぎじゅつをていきょうして、土橋町にやくとう(山の湯)を開かせた話は有名です。
 宗達は、明治18年(1885年)に新しい医りょうちしきをふきゅうさせるために、樋口三郎らと医学会社をせつりつし、犬上ぐんのしょだい医し会長になりました。また、大津(おおつ)医学校(大津日赤(おおつにっせき))のそうりつにど力し、全県下にわたってかつやくしています。その他、みずからそっせんしてしゃかいへんかくをとなえ、実行していきました。明治23年(1890年)の彦根幼稚園(ひこねようちえん)かいせつ、さらに女せいのちいこうじょうのために女子教育をていしょうし、淡海(おうみ)女学校(後の県立彦根高等女学校)のせつりつにもつくしました。
 このように神をしんじ、人をあいし、ひたすら医の道にしょうじんした宗達でしたが、大正14年(1925年)10月22日、88さいでゆたかなしょうがいをとじました。

※大政奉還は慶応(けいおう)3年(1867年)10月14日、だい十五代しょうぐん徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、せいじのけんりょくをちょうていに返上しました。ちょうていは15日に受け入れました。

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彦根をマラリアからすくう     小林郁(こばやしかおる)

だい三代市長たんじょう
 小林郁は明治21年(1888年)7月27日、高宮村の小林二郎(こばやしじろう)の五男として生まれました。彦根中学、だい三高等学校をへて、京都帝国大学医学部(きょうとていこくだいがくいがくぶ)をそつぎょう、大正5年(1916年)彦根町で医院を開業しました。青年時代からせいじにかんしんのあったかれは、大正10年わずか26さいで彦根町ぎ会ぎいんになりました。そして、いご県ぎをれきにんした郁は、昭和22年(1947年)ついにだい三代彦根市長になりました。

マラリアたいさく
 郁が市長になった当時、彦根ではマラリアというでんせん病が大流行していました。この病気はアノフェレスというゆうどくかによってでんせんする病気で、発病すると40度をこす高ねつが何度も出るというたいへんおそろしい病気でした。そのため、彦根では「おこりをふるう」といっておそれられていました。そして、マラリアは彦根町の風土病のように言われながら(全国のかんじゃの25%近くを人口5万人の彦根町から出していた。)、なすすべがないままほうちされているじょうたいでした。
 マラリアによって彦根の町のはってんがさまたげられ、市みんのけんこうががいされていると考えた郁は、こうしたじたいをかいけつするため、医しとしてのけいけんを生かしながらマラリアのくじょにとりかかりました。まず、昭和24年、マラリアたいさく5か年計画が立てられじっしにうつされました。この計画により市にはえいせいかがおかれ、きそてきなちょうさけんきゅうをするための市立マラリアけんきゅう所もそうせつされました。
 そして、じゅうみんの教育とけいはつ ・原虫に対するしょち(やくざいさんぷ・水いきのせいそう) ・ゆうどくかの発生をふせぐためのえいせい土木(外ぼりやしっちたいのうめたて)など、いろんなたいさくがじっしされました。こうした大事業は彦根町にとってもけいざいてきに大きなふたんでしたが、かんけいしゃのど力によって、わずか5年後の昭和29年には市内からマラリアかんじゃが発生しないほどの大きなせいかをあげました。

せいじかとして
 市長2期をつとめる間、郁はその他にも数々のこうせきをのこしました。国道8号線のかくふく、彦根城(ひこねじょう)の国ほうしてい、滋賀(しが)大学本ぶの彦根せっちなどです。また、城東(じょうとう)・城西(じょうせい)小学校の本館を、てっきんコンクリートでたてました。このように彦根市のはってんに大きなこうけんをした郁は、昭和30年(1955年)には、だい25回そうせんきょにりっこうほしとうせん、しゅうぎいんぎいんとしてちゅうおうせいかいでもかつやくしました。
 郁はつねに自分を「野人」とよんで、歯にきぬを着せない言動は有名でしたが、それでいて人をきずつけるようなところがなかったのは、かれの人間味あふれるひとがらによるものでしょう。
 昭和49年(1974年)87さいで世を去りました。

※ふうど病は、きこうや地しつなどがげんいんで発生するその地ほうとくゆうの病気のことをいいます。

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れきし学者     中村不能斎(なかむらふのうさい)

 不能斎はまがったことが大きらいで、自分にうそのつけないせいかくの人でした。
 ある年、ぶぎょうになったかれは、会計の仕事をせよとめいれいされました。しかし、この仕事はどうも自分のしょうに合わないと考え、自らぶぎょうのしょくをやめました。はんのめいれいにしたがわなかったとして、慶応(けいおう)4年、いんきょを命じられると、不能斎は39年間、家から一歩も外へ出なかったそうです。
 ある年、大こう水でねどこまで水がついてきましたが、「自分は外に出られる身ではない。」と、たなの上にすわって水の引くのを待っていたといわれています。
 この間に、国し・国学をけんきゅうし、筆写した書物が身長の3倍いじょうにもなったといわれます。
 ばん年は彦根はんのれきしけんきゅうにはげみました。不能斎ははんにのこされている多くのしりょうの中からねうちのあるものを見分ける力があったといわれています。
bちょしょ「彦根山由来記(ひこねやまゆらいき)」は有名です。

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彦根がほこるしょせい     日下部鳴鶴(くさかべめいかく)

書の道ひとすじ
 鳴鶴は天保(てんぽう)9年(1938年)8月18日に、彦根はんしの田中惣右衛門(たなかそうえもん)の次男として江戸(えど)はんていで生まれました。安政(あんせい)6年、22さいで同じ彦根はんしの日下部三郎右衛門(くさかべさぶろうえもん)のようしになってあとをつぎ、井伊直弼(いいなおすけ)に仕えました。ようしょうのころは、はんで菱湖流(ひしこりゅう)のしょほうを学んでいます。万延(まんえん)元年(1860年)3月3日に桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)でたいろう井伊直弼が水戸のろうしにころされた時、ようふの三郎右衛門もその場でじゅうしょうを負い、60日後になくなったのでたいへん悲しみました。また、そのため彦根はんが10万石をげんふうされ、はんしのきゅうりょうも3分の1にへらされ、生活も苦しくなりました。しかし、鳴鶴はその中で書を学び学問にはげみました。そして、このころしょうがい書道にせんねんすることを決意しました。
 明治(めいじ)元年(1867年)東京へ出てしんせいふのしょきかんになり、三条実美(さんじょうさねとみ)だじょうだいじんや大久保利通(おおくぼとしみち)らのしんにんを受けました。東京では、嵯峨天皇(さがてんのう)ら三筆、小野道風(おののとうふう)ら三せきを学び、こしゃきょうをけんきゅうして、のびのびとしてきれいな草書の書風を身につけたといわれています。明治天皇(めいじてんのう)が大久保利通やしきにぎょうこうされたとき、ごぜんで書を記したこともあります。
 明治12年(1879年)鳴鶴は役人をやめ、書道にしょうがいをかける道をえらびました。幸い、当時、清(しん)国公し、何如璋(かじょしょう)とともに日本にまねかれていた学者楊守敬(ようしゅけい)と出会い、本かくてきに中国の書道や金石学を学ぶきかいにめぐまれました。鳴鶴は、どうしの岩巌一六(いわやいちろく)・松田雪柯(まつだせっか)らとともに、何度も守敬のところに足を運んで、中国れきだいしょほう(六書)を学び、一万よのひばんもくろくをさくせいしました。これにより書のおうぎをきわめたといわれています。
 その後、鳴鶴は日本かく地をまわり、詩をうたい数多くの名筆をのこしました。

書は心画なり
 鳴鶴は明治24年(1891年)54さいの時、古書のけんきゅうのため清国にわたりましたが、その時すでに中国の人々から「東海のしょせい来たる」というだいかんげいをうけるほどの書家になっていました。
 ここでも多くの学者や文化人と交わっています。また、明治43年(1910年)にはちょくめいによって大久保利通こうしんどうひを書きました。だいおんある人のために、鳴鶴は、加賀(かが)の山中おんせんにこもった上、心血をそそいでおよそ3000文字のひぶんめいをかんせいさせました。
 鳴鶴は弟子に「書は心画(しんが)なり」とつねに教えました。ぎげいではなく、せいしんのあらわれとして書をとらえたものといえましょう。
 大正11年(1922年)85さいでなくなるまで、多くのそくせきをのこしていますが、こきょうである彦根の地では、天寧寺(てんねいじ)けいだいの大東義鉄(おおひがしよしあきら)(=明治ちゅうきの司法大臣(しほうだいじん)で近江鉄道(おうみてつどう)のそうししゃ)のけんしょうひぶんをはじめ、多くのすぐれた作品にせっすることができます。

※小野道風(894年−966年)は、平安中期の書家で藤原佐理(ふじわらのすけまさ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)とともに三せきといわれています。
 本名は小野みちかぜといいます。

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彦根の茶道(さどう)     中村宗芳(なかむらそうほう)

 宗芳は京都南禅寺(なんぜんじ)門前のりょうてい、「瓢亭(ひさごてい)」の二女として生まれ、ようしょう時より裏千家円能斎(うらせんけえんのうさい)のじき弟子として茶道に入門ししょうじんを重ねました。
 井伊(いい)家からのいらいを受け、井伊家下やしきのかんりをしているとき、関東大震災(かんとうだいしんさい)がおこったので、身命をなげて井伊家の家やしきを守りましたが、大半をしょうしつしました。その後、おっととともに彦根に帰り、不能斎のやしきに住みました。
 当時は、裏千家茶道家は彦根ではみられませんでしたが、家元からのえんじょを受けて、彦根で裏千家茶道のげん流として数多くの弟子を育てました。井伊直弼のとなえた一期一会(いちごいちえ)茶道と、千利休(せんのりきゅう)の茶道をたいせいした和敬静寂(わけいしんじゃく)茶道は、今日も受けつがれています。
 彦根の茶道家は全て、中村宗芳の教えを受け、このせいしんにしたがって、茶道のいったんをになっているといえます。

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生け花・月泉流(げっせんりゅう)を守る

 茶木長兵衛(ちゃきちょうべえ)は、彦根に住んでいて、石州流(せきしゅうりゅう)の茶道(さどう)に通じていました。当時、はんしゅ直弼(なおすけ)も深く石州流の茶道にしょうじんしていたので、彦根でも石州流を学ぶ者が多く、長兵衛の下には、たくさんの門下生が集まっていました。
 生花月泉流は二条家(にじょうけ)を家元として、いぜんは広くいきわたっていたのですが、長い間、学ぶ者も少なくとだえたままになっていました。それをおしんだ長兵衛は、自ら月泉流についてけんきゅうを深め、二条家をおとずれてしどうを受けました。そして、文政(ぶんせい)7年(1824年)半ばとだえていた月泉流のめんきょをさずけられ、宗匠(そうしょう)になりました。
 月泉流をふたたび広めるため、日本全国のどう流はをしゅぎょうする人々の先頭に立ってかつやくしました。
 がごうを梅壽斎一遊(ばいじゅさいいちゆう)と名のりました。
 文久(ぶんきゅう)元年(1861年)7月5日になくなっています。

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能(のう)にしょうがいをかけた     井伊直忠(いいなおただ)

 江戸(えど)時代、能はばくふのしきがくであり、正月やちょくしげこう(てんのうからの使者がおとずれること)の時などのきょうおうに能がえんじられました。そのため大名たちものうについてのきょうようをもとめられ、どのはんでも能をえんじるのうがくしを何名もかかえるなど能に力を入れていました。井伊(いい)家でも、代々喜多流(きたりゅう)の能をえんじてきました。
 中でも、直弼(なおすけ)のまごに当たる井伊直忠は、自ら能をえんじるほどのうちこみようで、大正8年に東京麹町(こうじまち)のやしきに能ぶたいを新ちくしました。直忠は、梅若万三郎(うめわかまんざぶろう)のしどうで、ひたすらげいをみがき、そのうではすでにしろうとのいきをだっしていたといわれています。
 げんざい井伊家には、やく250てんもの能しょうぞくがのこされていますが、そのうちやく半数は直忠が明治(めいじ)・大正期に作らせたもので、どのえんもくの能でもじょうえんできるようにとりそろえられています。

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夜空にひびけ     桜川大龍(さくらがわだいりゅう)

 夏の夜空に、「彦根ばやし」や「江州音頭(ごうしゅうおんど)」が鳴りひびくと、もうそれだけで心がうきうきして、手足がしぜんにひょうしをとって動きだす人も多いことでしょう。このぼんおどりでおなじみの「江州音頭」を作ったのが、河瀬(かわせ)村しゅっしんの西沢寅吉(にしざわとらきち)(=げいめい・桜川大龍)です。
 寅吉は江戸(えど)時代の終わりごろ、八日市で板前をしていました。歌のじょうずな寅吉は、りょうりやの店にくる客にじまんののぞを聞かせていたのですが、祭文語り(さいもんがたり)のげいにん・桜川雛山(さくらがわすうざん)に教えてもらい、自分でくふうして、「江州音頭」を作り上げたのです。その後、桜川大龍と名のり、地元はもとより、県外でも大いにかつやくしました。寅吉の死後、南河瀬町でついとう大ぼんおどり大会がせいだいに行われ、法蔵寺(ほうぞうじ)門前にきねんひがたちました。

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