彦根は交通のようち

 だい二代はんしゅ井伊直孝(いいなおたか)は、りょう内を通る交通路をせいびして人々がりようしやすいようにしました。まず、中山道の宿場が、番場(ばんば)宿・鳥居本(とりいもと)宿・高宮宿・愛知川(えちがわ)宿とつづいていますが、直孝は、小野宿(=今の小野町)をはいしして鳥居本に新しく宿場を開きました。そして、中山道と彦根のじょうかをむすぶために、鳥居本の百々(どど)から彦根じょうかの伝馬(でんま)町(=今の中央町)に通じる道を開きました。そのとちゅうに、佐和山(さわやま)の切り通し坂がありました。さらに、高宮宿とじょうかをむすぶ道も開きました。このようにしてじょうかに、多くの人が出入りできるようにしました。また、荷馬車など重い荷物を運ぶため、番場宿から北国かい道の米原宿を通って鳥居本宿に通じる道を開きました。これは、磨針峠(すりはりとうげ)をさけるための回り道でした。(中仙道は享保(きょうほ)元年(1716年)から中山道と書いた)。
 京都へ上る道としては、古くから開けていた彦根西寺じゅんれいの道(日夏町から池州(いけす)町まで)を整理しました。この道は鳥居本から野洲(やす)町へ通じる朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)の名で知られています。当時は一級の道としてしょうぐんじょうらく(京都へ上る)のときや朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)がりようしました。そして、宗安寺(そうあんじ)は通信使の宿はく所でした。
さらに、湖上では、松原(まつばら)・米原・長浜(ながはま)に港をつくって、ふねによる交通をさかんにしました。中でも、直孝がりようした御小早船(おこはやぶね)は速いので有名です。

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虎徹(こてつ)の名刀

 数々の名刀をのこした長曾根虎徹(ながそねこてつ)は、越前(えちぜん)福井(ふくい)でよろいやかぶとを作っていましたが、中年になって、かたなかじにてんしょくして江戸(えど)に住むようになりました。
 虎徹のせんぞが彦根の長曾根(彦根山の西ろく松原(まつばら)で今の長曾根ではない。)に住んでいて、当時佐和山(さわやま)じょうしゅであった三成(みつなり)にめされて刀工をしていたといわれています。しかし、関が原(せきがはら)のかっせんで三成がやぶれたため、越前の福井にのがれ住みました。
 虎徹の打ちだしたとうけんは、そのみごとな切れ味とともに、刀にほどこされたちょうこくやしんせんなはもんで有名です。

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法界坊(ほうかいぼう)のつりがね

 法界坊は鳥居本(とりいもと)上品寺(じょうぼんじ)のそうで、了海(りょうかい)といいました。18さいで出家し、京や江戸(えど)で学んだ後、みどうがひじょうにいたんでいるのをみて、さいけんをしようとしょこくをたくはつして回りました。
 あるとき、江戸吉原(よしわら)の遊妓(ゆうぎ)、花里にほうわをきかせたことがきっかけになり、りっぱなつりがねをきしんしてもらうことができました。
 法界坊はこのかねを車にのせて江戸からひいて帰り、明和(めいわ)6年(1769年)ついにりっぱなしょうどうをかんせいさせました。その後はもっぱらしゅうようにつとめ、79さいでなくなりましたが、今もなおこのかねはいい音声をひびかせています。

※たくはつは、しゅうぎょうそうが家々から米・ぜにをてつはちで受けてまわること。

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きょうどげいのう母衣(ほろ)おどり

ソーラ  馬のまだまだよせりばんごしゅよせりばんごしゅよ

     アヽヨ ホイサ サアヤットコセ

  エー せりばんごしゅよせりばんごしゅよ

ソーラ きょうからおんけならからくるげうまいでもたまる

    アヽヨ ホイサ サアヤットコセ

  エー ならからくるげうまいでもたまる

ソーラ めんしょじさまからふちくれとおしゃるしよけのふちよ

    アヽヨ ホイサ サアヤットコセ

  エー ふちくれとおしゃるしよけのふちよ

ソーラ げんげのはなをたすきにかけてたすきにかけて

    アヽヨ ホイサ サアヤットコセ

  エー たすきにかけてたすきにかけて

 母衣おどりは小泉町(こいずみちょう)につたわるもので、室町(むろまち)時代のころ、じとうしょくの紙子与左衛門(かみこよざえもん)が、むすめの病気をなぐさめるために村のわかものにおどらせたとつたえられています。(雨ごいのおどりともいう。)
 彦根には、高宮町のかぼちゃおどり、大やぶ町の大やぶおどり、小野町のたいこおどりなどがあります。

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