蕉門十哲(しょうもんじってつ)のひとり     森川許六(もりかわきょりく)

たげいたのうのさい人
 許六は、明暦(めいれき)2年(1656年)8月14日に彦根じょう下の藪下(やぶした)で、はんし森川與次衛門(もりかわよじえもん)の子として生まれました。名前は、百仲(ひゃくちゅう)、字(あざな)は羽官(うかん)、つうしょうは五助・金平で、五老井(ごろうせい)・菊阿仏(きくあぶつ)などと号しました。許六という名は、六げい(俳諧(はいかい)・絵画・書・けん・やり・ばじゅつ)にすぐれていたので、芭蕉(ばしょう)が命名したと言われています。
 龍潭寺(りょうたんじ)のふすま絵は、すべて許六の作品です。書は、各務支考(かがみしこう)の「弔許六(ちょうきょりく)」の文字から名筆であったことが知られています。けんどうは正法流(しょうほうりゅう)、やりは宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)、ばじゅつは悪馬新当流(あくばしんとうりゅう)のたつじんでした。さらに、のうがく・ちょうこく・茶道もよくしました。とくに俳諧では、はじめ北村季吟(きたむらきぎん)から学び、のちに芭蕉の門に入って、さいのうをはっきしました。嵐蘭子(あらしらんこ)が「わがふくちゅうをさぐりえた人は許六なり。せんざいの後も許六がごとき人、世にありと思わず。」と、感心したほどでした。

蕉門二世
 元禄(げんろく)4年(1691年)に、芭蕉が彦根にきて、明照寺(めんしょうじ)の李由(りゆう)をたずねたとき、許六は江戸(えど)にいて出会えませんでしたので、「かたちがいする事、これまたしにえんうすきなり。」とざんねんがりました。芭蕉と出会えたのは、元禄5年8月、天野桃隣(あまのとうりん)のしょうかいで、許六が深川の芭蕉庵(ばしょうあん)をたずねて、入門したときです。そのとき、数へんのくを持って行きましたが、この中に芭蕉がたいそうほめた『十団子(とをだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋の風』のくがありました。その後、芭蕉が許六から絵を学んだこともあって、たがいに深いつながりを持つようになりました。許六が彦根に帰るとき、芭蕉は「柴門の辞(さいもんのじ)」で、わかれをおしみ、この後、何通も手紙をよせています。
 許六は芭蕉のばん年に門人となりましたが、2000人の門弟の中で、十哲の一人に数えられるほどすぐれた俳人(はいじん)でした。俳諧には、許六をしのぐ人もいましたが、芭蕉がなくなった後、芭蕉のはいくの心をとらえ、しの考えを正しくつたえていくねついと力りょうをもった人物は、許六のほかにはだれもいませんでした。
 許六は俳人よりはいろん家としてのこうせきが大きく、「風俗文選(ふうぞくもんぜん)」「正風彦根体(しょうふうひこねたい)」など多くの書物をのこしました。許六と親交のあった李由とは、きょうどうで「韻塞(いんふたぎ)」、「宇陀法師(うだのほうし)」などをへんしゅうしました。彦根ぶりと言われる俳諧をきずいて、湖東地方のしゅりょうとあおがれ、大津(おおつ)京阪(けいはん)の俳人と対立しましたが、少しもひけをとりませんでした。しかし、その後は、許六の言葉に耳をかたむける者が少なくなりました。
 許六は、自分のことを「蕉門二世」と言って自分を高く買い、「先師(せんし)の発句(ほっく)の作り方の前後をよく知り、俳諧の底(そこ)を抜(ぬ)いて古今(ここん)にわたるものは五老井ただ一人。」と自負しています。許六のそんな一面に、反発もあったのでしょう。許六がなくなった後、蕉風(しょうふう)の俳句(はいく)はしだいにおとろえていきました。しかし、芭蕉の心は許六の書物によって、のちの人々につたえられ、すぐれた俳人を生む力になりました。
 許六が、俳人なかまとふうがを楽しんだ所は、原町に五老井あととしてのこり、そこに「水筋(すじ)を尋(たず)ねてみれば柳(やなぎ)かな」のくひが立っています。かれのばん年は、持病のらいになやまされ、あまり人にも会いませんでしたが、死ぬまで、筆をはなさなかったということです。正徳(しょうとく)5年(1715年)8月26日、60さいでなくなりました。

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彦根が生んだ俳人(はいじん)     月沢李由(つきざわりゆう)

明照寺(めんしょうじ)じゅうしょく
 李由は、寛文(かんぶん)2年(1662年)7月、明照寺(平田町)のじゅうしょくである河野亮雄の子として生まれました。そして父の死後、だい十四世じゅうしょくをつぎました。名を亮隅、号を李由といいます。
 李由は、わかいころから書道や絵、それに文章を書くことがたいへん上手でした。その上、お茶の道にもすぐれ、俳句(はいく)もたしなむという文化人でした。

芭蕉(ばしょう)の門人
 松尾芭蕉(まつおばしょう)は、正保(しょうほ)元年(1644年)に、伊賀(いが)国上野(=今の三重(みえ)県上野市)で生まれました。19さいのとき、藤堂良忠(とうどうよしただ)(=藤堂はんのかろうの子)に仕えて、だい所ごようがかりをしていました。良忠は、ぶんぶにすぐれたぶしで、京都の北村季吟(きたむらきぎん)(近江(おうみ)の国・野洲(やす)の人)から俳句を学んでいたので、芭蕉は、主人の良忠から俳句の手ほどきを受けました。そして、のちに季吟の門に入って俳句を学びました。
 ところで、彦根の俳人森川許六(もりかわきょりく)も、北村季吟の門で学び、のちに、芭蕉の門人になった人ですが、李由は、許六と親交を深めて俳句を学びました。そして、李由が29さいのとき(元禄(げんろく)4年5月1日)京都嵯峨野(さがの)の落柿舎(らくししゃ)にいた芭蕉をたずねて門人になりました。芭蕉は落柿舎にたいざい中『嵯峨日記(さがにっき)』を書きましたが、その中に、李由のくが書かれています。

   竹ノ子や喰残(くいのこ)されしあとの露(つゆ)   李由

していの愛
 元禄(げんろく)4年(1691年)5月5日、芭蕉は落柿舎にわかれをつげて9月28日まで、京都や大津(おおつ)の門人をたずねまわっていましたが、下じゅんに明照寺をたずねました。李由は、たいへんよろこんでしの芭蕉をまねいてもてなしました。
 そして、明照寺が明徳(めいとく)4年(1393年)に多賀(たが)でこんりゅうされ、慶長(けいちょう)4年(1599年)に彦根へいちくされてから百年のれきしをもつゆいしょのあるお寺のことを話すと、芭蕉は、さすがに庭の落葉も古さが感じられて、しずかな所だと言って『百歳(ももとせ)の景色(けしき)を庭の落葉かな』のくを李由におくりました。また、ゆいしょあるお寺におまいりする人々が、ありがたさのあまりなみだを流すでしょうが、そのなみだがもみじにそまってちっています、と言って、『たふとかる涙(なみだ)やそめてちる紅葉(もみじ)』のくを読むと、李由は、『一夜しずもるはり笠(かさ)の霜(しも)』とつけたして芭蕉の旅笠(たびがさ)にしもがおりて夜も深まりました、と言いました。二人のしていは、夜もふけるまで話し合ったのです。
 芭蕉は李由となごりをおしみながら、10月上じゅんに江戸(えど)へ向けて旅立ちました。
 元禄(げんろく)7年(1694年)10月7日、大阪(おおさか)から李由のもとに芭蕉が病気になって命があぶないという知らせがとどきました。李由はすぐに大阪へ行って芭蕉をみまいましたが、12日に51さいでこの世を去りました。そして、13日、大津の義仲(よしなか)寺にほうむられました。李由は、明照寺ですごした秋の夜の旅笠を思い出して、芭蕉の形見に笠(かさ)をもらい受け、それをくようしたのが笠塚(かさづか)です。李由は宝永(ほうえい)2年(1705年)6月、43さいでなくなりました。

   乞食(こつじき)の こと言うて寝る夜の雪   李由

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直弼(なおすけ)の心をささえた名そう     仙英(せんえい)

 仙英は天明(てんめい)2年(1783年)に、因州(いんしゅう)鳥取で生まれました。早くからぶつ門に入り、金城(きんじょう)おしょうのもとでしゅぎょうしました。仙英のさいのうをみとめただい十二代はんしゅ直弼は、清凉寺(せいりょうじ)二十三世のじゅうしょくにむかえました。清凉寺では仙英に感化され、多くのめいそうが生まれましたが、とくに、直弼は仙英をしとあおいだことで有名です。
 嘉永(かえい)6年(1853年)米使ペリーが浦賀(うらが)にやってきました。直弼は彦根でこのほうを知ると、深くゆうりょして仙英をたずね、国家ちんごのきがんをたのみました。仙英は、生死をこえて国家人みんのためにど力すれば、かならず仏菩提(ぶっぼだい)のしゅごが受けられると教えて、開国を決意させる心のささえになりました。
 また、直弼は自分にはけんなんの相が出ていると話すと、ぶしならとうぜんでよろこぶべきことだとさとしました。仙英は、元治(げんじ)元年(1864年)83さいでこの世を去りました。

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じひぶかい歌人     慈門尼

にそうへの決意
 慈門尼は、元禄(げんろく)13年(1700年)彦根はんし武居次郎三衛門(たけいじろうざえもん)のむすめとして生まれました。11さいで、母と死べつし、悲しみの内に日をすごしていましたが、さらに15さいの時に、父が江戸(えど)で急死してしまいました。相次ぐふこうに世をはかなみ、むじょうかんをいだくようになりました。しんせきの者は、りょうえんを見つけて早くとつがせようとしましたが、気がすすまないまま、びわ町八木浜(やぎはま)のそぼのもとに身をよせました。そして、りょうしの仕事を見て歌をよみ、書物を読んでは、日をすごしていました。だがしだいに、人間のあさましさや魚貝のはかない生命を思って、にそうになりたいと思うようになりました。
 そぼが病気でなくなったあと、彦根へ帰ってきましたが、にそうになる決心はかたく、もうだれも止めようとはしませんでした。そこで、里根(さとね)にある禅宗(ぜんしゅう)の広慈庵(こうじあん)で、一枝禅師(いっしぜんじ)のとくどを受けました。まだ18さいのわかさでした。

和歌の道
 慈門尼はなが年のねがいがかない、ひたすらぶつどうにしょうじんしました。そのかたわら、沢村琴所(さわむらきんしょ)について和歌の道にもはげみました。琴所は、彦根じょう下の松寺村(まつでらむら)(=今の葛篭町(つづらまち))に住み、松雨亭(しょううてい)というじゅくを開いて、古学や和歌を教えていました。慈門尼は、あらぬうわさを立てられるのをおそれて、死ぬまで琴所とはあおうとはせず、いつも手紙でしどうを受けていました。

じひの心
 数年後、多賀(たが)の向山にいおりをゆずりうけ、一人住まいを始めました。ある寒い冬のゆうぐれのことでした。じひぶかいにそうのうわさを聞いてか、みすぼらしいすがたの兄弟がはらをすかしてやってきました。そのすがたを目の前にして、あまはすぐに、自分の着ている白いをぬいで分けあたえ、かゆをたいてもてなしました。その時の歌です。

   侘人(わびびと)の哀(あわれ)はよそに過さねど
      おほふに狭き袖(そで)は恨(うら)めし

おんし海量(かいりょう)
 宝暦(ほうれき)5年(1755年)尼は、ふたたび里根の広慈庵に帰り、内外古今の書をひもといてちしきを深めていきました。しばらくして、佐々木海量(ささきかいりょう)という学者が、里根にうつりすみました。海量は賀茂真淵(かものまぶち)をしゆうとして、歌道にはげみ、本居宣長(もとおりのりなが)とも親交がありました。はんこう弘道館(こうどうかん)をたて、石崎文庫(いしがさきぶんこ)を作った近世のちょめいな文化人として知られています。尼は海量から女論語(ろんご)・女孝経(こうきょう)・列女伝(れつじょでん)・内訓女誡(ないくんじょかい)などの教えを受け、深くかんげきして、ますます自分の行いをきびしくし、身をつつしむようになりました。

盗人改心(とうじんかいしん)
 ある年の雪のふる真夜中のこと、盗人がいおりにおしいったのです。ところが尼は少しもおどろかず、しずかにえしゃくして「この寒い真夜中にしのびこんできたのは、はらがすいてたまらないからでしょう。」と、まきをもやしてあたためながら「わたしには、お金も物もふようです。ほしいだけさしあげますから、これをもとに仕事につきなさい。」と、かゆを食べさせながらさとしました。それを聞いて、盗人はすっかり心を打たれて、その場で改心したといわれています。
 慈門尼は、安永(あんえい)4年(1775年)7月19日に、76さいでこの世を去りました。海量は慈門尼の死をいたみ、歌集『松風集(しょうふうしゅう)』を世に出しました。この中の一首が、宮中で話題になると、てんのうの耳にもたっしたという秀歌(しゅうか)でした。


   影(かげ)うつす富士を藻塩(もしお)に汲添(くみそ)えて重げに見ゆる田子の浦(うら)人

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はんこうのけんせつに力をそそぐ     佐々木海量(ささきかいりょう)

歌道のけんきゅう
 海量は享保(きょうほ)18年(1733年)8月14日、彦根市開出今(かいでいま)町の浄土真宗(じょうどしんしゅう)覚勝寺(かくしょうじ)のそう玄明(げんめい)の五男に生まれました。ようしょうのころ父母とわかれましたが、がんらいの気の強さとさいのうにめぐまれたこともあって、わかいころから彦根のそう円流法師(えんりゅうほうし)や坂田郡(さかたぐん)今村のそう巍堂法師(ぎどうほうし)のじゅくでこうぎに耳をかたむけたり、京都の西本願寺(にしほんがんじ)で学問にはげんだりして、学しきを広めていきました。
 海量はあざなを宝器(ほうき)または、奉張(ほうちょう)と言い、べつめい寒巌窟(かんがんくつ)と名のっていました。20よさいの時にそうしょくをおいの立綱(たてつな)にまかせて自由の身となり、近江路(おうみじ)を歩いたり、東方(東京方面)にあんぎゃしながら地方の学友をたずねては、ちしきを広めることにつとめました。
 明和(めいわ)2年(1765年)33さいの秋、里根(さとね)山(里根町)にそうあんをたててうつりすみました。そして、このあたりはさくらがあったのでこの地を桜渓里(おうけいり)と名づけました。かれの歌にもさくらが多くよまれています。

   あづさ弓(ゆみ) 春日のどけく咲(さ)きにおう 桜(さくら)の谷は すめどあかぬかも

 海量は、里根のそうあんのさくらが大へん気にいったのか歌集を「桜渓(おうけい)歌集」と名づけています。
 明和(めいわ)3年(1766年)34さいの時、江戸(えど)(=今の東京)に加藤枝道(かとうしどう)・賀茂真淵(かものまぶち)らをたずねて和歌の道を学びました。また、京都に出向いては、古風な歌を学びとることに心がけ、さらに江戸・大阪(おおさか)・四国などかくちをめぐって、歌道にすぐれたこうそうやしゆうと交わりながら万葉集のけんきゅうにぼっとうしたといいます。
 海量は、寛政(かんせい)5年(1793年)はじめて長崎(ながさき)に行ったとき、近江(おうみ)の国栗太郡(くりたぐん)下笠(しもがさ)のらん学者横井金谷(よこいきんこく)とぐうぜんに出会いました。また出島のらんかんやとう人かんに行っては中国語・オランダ語をねっしんに学びました。

石ヶ崎文庫(いしがさきぶんこ)
 享和(きょうわ)元年(1801年)7月、海量はだい十一代はんしゅ直中(なおなか)よりはんこうをそうせつするよう命じられました。海量はさっそく萩(はぎ)の明倫館(めいりんかん)・熊本(くまもと)の時習館(じしゅうかん)その他数多くの有名なはんこうをめぐりながら、じつじょうや問題点について細かく調べあげました。
 調べたことをはんしゅ直中にほうこくしました。そして海量を中心にはんこうのせいどについてけんとうをくわえ、苦心に苦心を重ねたけっか、熊本の時習館をまねて稽古館(けいこかん)(後の弘道館(こうどうかん))をそうせつしました。
 このこうせきで海量は、はんしゅ直中より石ヶ崎に土地をあたえられ、石ヶ崎文庫をたてました。書せきは、長崎(ながさき)に行って、洋書をこうにゅうしたり、かく地から買いもとめた書せきを集めて、人々に広く読むきかいをあたえました。石ヶ崎文庫は潭龍寺(りょうたんじ)の門前より井伊(いい)神社さん道あたりにあったとされていますが、いせきはのこっていません。
 海量は、日本の心を歌った万葉風の和歌を数多く読んだ歌人として、また、近江聖人(おうみせいじん)として湖国の人々からそんけいされている中江藤樹(なかえとうじゅ)におとらない国学者として広く世に知られています。海量は、文化(ぶんか)14年(1817年)11月11日、家を出ようとしたとき、そっとうしてなくなりました。とし85さいでした。

※石ヶ崎文庫はいっせつによると、けんせつよていのままじつげんしなかったといわれています。

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彦根はんの国学者     小原君雄(おはらきみお)

 君雄は中尾茂一(彦根はんかんじょうかた)の子として生まれました。16さいのとき小原家のようしになりました。おさない時から学問がすきで、大菅中養父(おおすがなかやぶ)という学者に弟子入りしています。そして歌の勉強にもはげんでいます。
 また、伊勢(いせ)の国(=今の三重(みえ)県)松阪(まつさか)にいた国学者本居宣長(もとおりのりなが)の門にも入り国学(和学)の勉強にもどりょくしました。当時のはんしゅ直中(なおなか)は学問をしょうれいし、はんこうとして文武舎(もんぶしゃ)(=稽古館(けいこかん))をつくりましたが、さっそく君雄は和学用がかりとしてまねかれ、多くの門弟に学問を教えています。
 江戸(えど)にいた時にはんしゅの命により、会津(あいづ)はん(福島県)のみぼう人会で「源氏物語(げんじものがたり)」のこうぎをしました。
 なお、これも直中のめいれいで「彦根歌集19かん」をつくり、「篠舎集」「名辨(めいべん)十巻」など多くの本をあらわしています。中川漁村(なかがわぎょそん)の父であった君雄は、鷦鷯舎(ささきのや)と号しました。天保(てんぽう)6年(1825年)84さいでなくなりました。

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はんこうの学問方     龍草慮(たつそうろ)

 龍草慮は正徳(しょうとく)5年(1715年)伏見(ふしみ)に生まれました。学問をこのみ、京都にうつった後もひたすら古学を学びました。漢詩や書をよくし、上杉(うえすぎ)流のぐん学にまでくわしかったので、その名は広く知られていました。
 宝暦(ほうれき)7年(1757年)だい十代はんしゅ井伊直幸(いいなおひで)は草慮を彦根にまねき、はんこうの学問方として子弟の教育にあたらせました。いご、19年にわたってはんの教育に大きなえいきょうをあたえ、かれの門弟からは子の玉淵(ぎょくえん)や佐々木海量(ささきかいりょう)などすぐれた文化人が出ています。
 へんしゅうした詩集は7へん36かんにおよび、その他のちょしょも「論語詮(ろんごせん)」30かんをはじめ、多数にのぼっています。78さいでこの世を去りました。長久寺(ちょうきゅうじ)にひがあります。

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弘道館(こうどうかん)の教頭     田中芹坡(たなかきんば)

 田中芹坡は子順芹坡(しじゅんきんば)と号し、おさないころから読書を大へんこのみました。父母は病気になるからと注意しましたが芹坡はいっしんふらんに読みました。その後、医学の道をこころざしましたが、芹坡は「人の病をなおせんより、人の心を医するにしかず」と考えて、中川漁村(なかむらぎょそん)について儒学(じゅがく)を学び、次に沢村琴所(さわむらきんしょ)から4年間学ぶと、さらに京都に出て、猪飼敬所(いのかいけいしょ)に学び、江戸(えど)へ出て松崎慊堂(まつざきけんどう)にしじしました。そして、彦根に帰りどく学でしゅうぎょうしました。
 はんこうよりめし出され、明治(めいじ)3年(1870年)弘道館(こうどうかん)の教頭しょくにつきました。漢詩にすぐれていて「知非録(ちひろく)」「漆室私儀(しっしつしぎ)」「帥友存歿記(しゆうそんぼつき)」などのちょしょがあるほか、谷如意(たににょい)・外村半雲(とのむらはんうん)・高木優為(たかぎゆうい)・渋谷啓蔵(しぶやけいぞう)などの門下生を育てました。はいはんののち、じゅうきょを高宮にうつし自由な毎日をすごしていましたが、明治15年(1882年)10月病にたおれ、67さいでなくなりました。門下生により天寧寺(てんねいじ)けいだいにせきひがたてられました。

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彦根はんの文学者     堀厳山(ほりげんざん)

 堀厳山は寛政(かんせい)12年(1800年)、彦根はんし壁(かべ)しの子として生まれました。名を正武(まさたけ)、あざなを子徳(しとく)といいます。
 おさないころから文学をこのみ、書を読み勉学にはげみました。京都のじゅしゃに学び、頼山陽(らいさんよう)の門に入りました。
山陽の門下に芸藩(げいはん)(=今の広島県)のじゅしゃ堀杏庵(ほりきょうあん)がいましたが、厳山がそのようしになったので、山陽はたいへんよろこびいっそうじゅ学のしゅうようをえんじょしていきました。厳山も頼山陽のしんらいをえて大いにはっぷんし、多くのこうせきをあげましたが、天保(てんぽう)2年(1831年)、病のために、わずか31さいのわかさでなくなりました。

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りょうさい・けんぼのかがみ     頼梨影(らいりえ)

出会い
「仰(あお)ぐ御柱(みはしら)多景島(たけしま)や、春は堤(つつみ)の花かおる…」と、歌われている多景島をがんぜんにながめ、後ろに、こう神山をのぞむ三津屋(みつや)町は、とてもすばらしいけいしょう地です。
 梨影は寛政(かんせい)9年(1797年)犬上ぐん磯田(いそだ)村大字(おおあざ)三津屋(=今の彦根市三津屋町)で疋田藤右衛門(ひきだとうえもん)の三女として生まれましたが、2さいのとき母と死べつしたので、4さいのころ、京都のはたおりや大崎嘉平(おおさきかへい)のようじょになりました。その後、京都の有名ならん医小石元瑞(こいしげんずい)のもとでおてつだいとしてほうこうしました。
 頼山陽(らいさんよう)(国学者で漢詩人)と梨影との出会いは、元瑞と親交のあった山陽がしばしばたずねたとき、かいがいしくはたらく梨影の人がらに心をうばわれた山陽は、梨影をつまにとのぞみました。そこで、梨影は元瑞のようじょになって、小石家からも山陽のもとにとつぐことになりました。文化(ぶんか)12年(1815年)梨影18さいのときです。じゅうきょを京都の二条(にじょう)にうつして、新たな家庭をつくることになりました。しかし、まずしい家に生まれた梨影はりっぱな教育を受けていないので、文字も書けず本も読めませんでした。

ないじょのこう
 梨影は、山陽の仕事をりかいして、手となり足となりながら、おっとにつくしたので、山陽はもとより多くのじゅくせいからもしたわれました。そんな梨影も、自分のむ学をはじて、山陽のつまとしておっとのめいよにきずがつくことにたえられない思いでした。そこで、すんかをおしんで読書や習字にはげみました。
 山陽が弟子にこうぎをしている時は、ふすまのかげから全身を集中させて、一語ものがさず聞き取りながら勉強しました。わからないところは、山陽がひまなときに教えてもらったり、おっとがねてからこっそり本を読んで調べるなど、いっしんふらんに勉強しました。
 こうしたど力が実って、山陽がふざいのときは、弟子を教えるほどの学問を身につけていきました。そればかりか、支峰(しほう)と三樹三郎(みきさぶろう)の二人の子を育て、さらに山陽の母梅颸(ばいし)にもこうようをつくしながら、しゅふとしてかいがいしくはたらいたので、みんなからつまのかがみとあがめられました。
 支峰と三樹三郎はのちに天下の学者として、また、きんのうのししとして名声をあげました。

いぎょうをつぐ
 山陽は日本外史(がいし)(武家(ぶけ)の盛衰興亡(せいすいこうぼう))をかんせいすると、つづいて日本政記(せいき)(こうしつを中心としたれきし)という本を書いていましたがなかばで病死(53さい)しました。げんこうはあと三分の一のこっていましたが、梨影はのこりのげんこうはわたしが仕上げますとちかいました。それから3年あまりかかってのこりを仕上げると、山陽のぼぜんにそなえてかんせいをほうこくしました。
 梨影は、安政(あんせい)2年(1855年)9月17日、京都で59さいのしょうがいをとじました。
 三津屋町には今もきゅう家として知られた梨影の生家、疋(ひき)田家がありその前庭には、「梨影夫人生誕地之碑(りえふじんせいたんちのひ)」がのこされています。

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感じたままをぶんげいにつづる     木俣修(きまたおさむ)

きかんぼう
 修二(しゅうじ)は、明治(めいじ)39年(1906年)7月に愛知川(えちがわ)町で生まれました。代々井伊(いい)家のじょうだいかろうをつとめた家がらでした。本名を修二といって、なかなかのあばれんぼうで、友だちといっしょにはだしで田んぼを走りまわっては、よくしかられていました。修二少年は、また、かなりのきかんぼうで、自分が一度こうだと言い出したら、だれの言うことも聞き入れませんでした。両親は、ぶけの生まれで、なかなかきびしくしつけをしていましたが、その両親でさえ手をやくことがたびたびでした。

ぶんげいざっし「赤い鳥」
 そんな修二が心からそんけいしていたのは、六つ年上の兄、彰一でした。10さいのころから、兄のえいきょうを受けて文学書に親しむようになりました。
 14さいになると、鈴木三重吉(すずきみえきち)らが発行していたじどうぶんげいざっし「赤い鳥」に作文やどうよう、自由画などをとうこうしました。そして修二の見たまま、感じたままを、少しも気どらず、かざらずにひょうげんした作風が三重吉や北原白秋(きたはらはくしゅう)らの目にとまりました。このざっしは、当時としてはめずらしいじどうのためのぶんげいざっしでしたから、おうぼされる作品数は、作文だけでも年に1000点をこえました。そんな中で、修二少年は、自由画・どうよう・作文の3部門にわたって数多くにゅうせんをはたしたのですから、たいへんなさいのうを持っていたといえます。そのにゅうせん作品の中から、どうよう2へんとその評(ひょう)をしょうかいしましょう。

「子蛙(こがえる)」
蛇(へび)が、
子蛙(こがえる)のみ込(こ)んだ。
蛙(かえる)の母(かあ)さん、
泣(な)いている。
(評)童心の美しくにじみ出たどうようである。ようじのあどけなさに通うものが、かえるの母へのやさしい思いやりとなってぎじんてきにひょうげんされている。

 

「よる」
風がすうすう。
起きてったら、
星が見ていた。
(評)さいしゅうぎょうにさくしゃどくじの発見があって、しじょうをとくいなものにしている。「星が見ていた」のであって、星がみえたのではない。星を主語にもってきて、自分を受け身にとらえることで、夜のしじまが、万物の中にとけてしまいそうな小さな作者のすがたがよくひょうげんされている。

 自分の目にうつるまま、心に感じるままを書きつづろうとした修二のしせいは、後に国文学者となり、短歌の道に進んで、歌会始めのひっとうせんじゃになったときもかわることなく持ちつづけていました。

ど力の人
 修二はすぐれたさいのうにくわえ、たいへんなど力家でもありました。
「人が起きている時、勉強するのは当たりまえだ。大切なのは、人がねてからどれだけど力するかである。」
といって、76さいでしょうがいをとじるまで、実に一万首いじょうの歌をのこしました。
 滋賀師範(しがしはん)をそつぎょうご、半年あまり磯田(いそだ)小学校(=今の城陽(じょうよう)小学校)で子どもたちを教えました。木俣先生は、石ヶ崎(いしがさき)(=今の馬場一丁目)から学校まで、やく6キロメートルの道をむねをはり、うでを大きくふって、毎日歩いて通ったそうです。雨の日も、ふぶきの日も、子どもたちの先頭に立って歩く木俣先生のすがたが目にうかぶようです。

   城(しろ)の町かすかに鳰(にお)の声はして   雪の一夜の朝明けんとす

 彦根市立図書館の前庭には、木俣先生のかひがたてられました。

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”天国に結(むす)ぶ恋(こい)”のさくししゃ     小林英俊(こばやしえいしゅん)

 彦根市正法寺(しょうぼうじ)町の円満時(えんまんじ)のじゅうしょくでもあり、詩人でもあった英俊は、明治(めいじ)39年(1906年)に小林顕誠(こばやしけんじょう)の二男として生まれました。旭森(あさひのもり)小学校からきゅう彦根中学校をへて中央仏教学院(ちゅうおうぶっきょうがくいん)へ進み、そつぎょうと同時に詩人をこころざして上京し、西条八十(さいじょうやそ)の門下生になりました。そしてしし「ろう人形」の同人になってかつやくしました。
 昭和7年(1932年)詩集「夢(ゆめ)に生く」をはじめてしゅっぱんし、当時の全国てきなざっし「むらさき」「令女界(れいじょかい)」などにも詩やしょうせつをれんさいしました。
 このころえいがかいは、むせいえいがからトーキーえいがへとうつりましたが、そのだい一作として「坂田山心中(さかたやましんじゅう)」がせいさくされたとき、その主題歌「天国に結ぶ恋」を作詩しました。えいがとともにぜんこくかくちで歌われました。
 昭和8年(1933年)長兄の病死で実家の円満寺をつぐために東京からききょうしました。その後もじゅうしょくの仕事のかたわら、蝋人形(ろうにんぎょう)関西支部(かんさいしぶ)しょぞくの詩友らのしどうにあたりました。とくに、安土の井上多喜三郎(いのうえたきざぶろう)や、長浜(ながはま)のしし「鬼(おに)」を出していた堀口大学(ほりぐちだいがく)門下の武田豊らと交わり、近江(おうみ)しだんをさかんにしました。
 そして昭和25年(1950年)には、近江詩人会(おうみしじんかい)のそうりつに力をつくしました。そして昭和26年に、

   歴史(れきし)も古き、  いざや川
   進みゆく世に 幸多く
   永劫(とわ)の真理(まこと)を 究(もと)めゆく 旭森に光あれ

と、旭森小学校歌を作詩しました。
 また、英俊はこのころ近江詩人会のなかまから「ごえんさん」とけいあいのねんをこめてよばれました。さらに、「ひでさん」ともよばれ、子どもたちの前で、とくいのゼスチャーをまじえてどう話を語りました。自由にことばをあやつり、子どもの心にくいこむ話し方と身ぶりは、実にきばつで、すぐれたさいのうがあらわれていました。
 昭和33年(1958年)9月にだいひょうてきししゅう「黄昏(たそがれ)の歌」をしゅっぱんしました。そして、昭和35年(1960年)5月、おしまれながら54さいで世を去りました。しかし、詩へのじょうねつはすばらしく、近江詩人学校の活動の原動力となり、「詩人学校」の発行も休みなくつづけられました。その同人である杉本長夫らのじん力で、しひがこんりゅうされました。

   春の山       小林 英俊
山は美しい肌着(はだぎ)にかへて 童女(どうじょ)のように ほほえんでゐ(い)る
誰(だれ)も呼(よ)んでゐはいない いつも門口(かどぐち)に佇(たたず)むのは
たつき荒(すさ)んだわたしの心が 温(あたた)まるからだ
春の山はやさしい夢(ゆめ)を孕(はら)んでゐる          西条八十書


 しじん英俊のひょうひょうとした生きざまは、じつりてきな湖国の風土の中で、やはりひときわいしょくのそんざいでした。

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