かがやく文化人

 江戸(えど)時代は、ぶしの文化にかわって、はなやかな町人文化がさかえました。彦根はんも、そのえいきょうを受けながらはってんしてきました。中でも、松尾芭蕉(まつおばしょう)を中心にした俳句(はいく)がさかんになると、彦根からは、芭蕉の門人として、森川許六(もりかわきょりく)・月沢李由(つきざわりゆう)つづいて中島素風(なかじまそふう)など、すぐれた俳人(はいじん)を生み出しました。
 また、江戸時代には、えしのかつやくによってはなやかな町人文化をきずきました。喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の美人画・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の役者絵、葛飾北斎(かつしかほくさい)や安藤広重(あんどうひろしげ)のふうけいがなどは、だいひょうてきなものです。彦根では、許六のしょうへいが(ふすまえ)がとくに有名で、作品が龍潭寺(りょうたんじ)にのこされています。
学問の分野では、中国からつたわったじゅ学や漢詩それに国学などを学ぶ者がふえました。そのため、彦根はんからも多くのめいそうや学者を出しました。中でも、佐々木海量(ささきかいりょう)・龍草慮(たつそうろ)・小原君雄(おはらきみお)・頼梨影(らいりえ)・慈門尼・沢村琴所(さわむらきんしょ)などは、彦根が生んだすぐれた文化人の一人です。
 こうして、彦根の文化は、江戸や京都の中央文化と深いつながりをもってはってんしました。そして、彦根の風土を活かしながらどくじの文化を育ててきました。しとあおいだ人々は次のとおりです。

○荻生徂徠(おぎゅうそらい)の門人として武笠子忠(むかさしちゅう)・松居子潤(まついしかん)

○龍草慮の門人として龍玉淵(たつぎょくえん)や伴只七(ばんただしち)

○伊藤東涯(いとうとうがい)の門人として沢村琴所(さわむらきんしょ)

○浅見絧斎(あさみけいさい)の門人として若林強斎(わかばやしきょうさい)

○頼山陽(らいさんよう)と交遊した中川漁村(なかむらぎょそん)

○梁川星厳(やながわせいがん)の門人として岡本半介(おかもとはんすけ)(黄石(こうせき))

○平賀源内(ひらがげんない)・司馬江漢(しばこうかん)・伊能忠敬(いのうただたか)・梁川星厳(やながわせいがん)・賀茂真淵(かものまぶち)・本居宣長(もとおりのりなが)らと交わった佐々木海量などなどです。

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さかんな彦根の俳諧(はいかい

 松尾芭蕉(まつおばしょう)の門人として、森川許六(もりかわきょりく)や月沢李由(つきざわりゆう)がかつやくしてから、彦根の俳諧は、大へんさかんになりました。そして、許六のもとには、多くの門人が集まりました。中でも、直江木導(なおえもくどう)・橋本儀右衛門(はしもとぎえもん)が有名です。
 そして、許六がよんだ俳句(はいく)の考えが、明治(めいじ)・大正へとひきつがれ、昭和3年(1870年)には、今居金之助(いまいきんのすけ)(亀山(かめやま)村)によってくしゅう「祝良喜」が出されました。
 なかでも、中島素風(なかじまそふう)は、天保(てんぽう)3年(1832年)彦根で生まれ、名を辰之助(たつのすけ)、のちに喜三郎(きさぶろう)といいました。素風は、彦根はんのせいさんかたの下役でしたが、安政(あんせい)2年(1855年)京都に出て、花本芹舎(はなのもときんしゃ)から俳句を学びました。そしてそうしょう(俳句の先生)になって、明治24年(1891年)60さいでなくなるまで、数百人の門人に俳句を教えました。

   たままつり きのうは主(あるじ) 今日は客   素風

 このように、彦根では許六や李由につづく俳人(はいじん)として中島素風がいます。

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