旅人に親しまれた神教丸(しんきょうがん)     有川市郎兵衛(ありかわいちろべえ)

中山道の薬問屋
 中山道は、多賀(たが)神社のさん道として、またしょ大名のさんきんこうたいなどで交通がはったつしていました。
 その中で、鳥居本(とりいもと)も宿場町としてたいへんにぎわいのある町でした。この宿場町に福島(ふくしま)という一けんの薬問屋がありました。福島はこの土地のごうしで、磯野丹波守(いそのたんばのかみ)のけらいとして相当はぶりをきかせていました。
 多賀神社へおまいりする人や、旅をする人の中には、長旅で身体の調子をこわす人も少なくありませんでした。これらの人たちは、福島で薬をもとめ、ひと休みしてから旅をつづけるのでした。福島は、後に鵜(う)川と改姓(かいせい)し薬屋を代々つづけていました。そこで市郎兵衛は生まれました。

赤玉の神教丸
 市郎兵衛は父につれられて、伊吹(いぶき)山へ薬のざいりょうである薬草とりに出かけました。何時間も山道を歩きつづけ、もくてきちに着くころはかなりつかれていました。
 伊吹山に登って、たくさんの薬草があるのにおどろきました。市郎兵衛は、このときの薬草をりようして、よくきく薬、旅人やみんなによろこんでもらえる薬、鳥居本のはってんにつながる薬のせいぞうと、新しい薬づくりの仕事を広めることを思いつきました。
 さっそく、今までのせいぞうほうほうをあらためてしんせいひんをつくるため、遠くの薬やなかまとれんらくをとったり、ある時は父母のゆるしをえて自分で出かけて行って、何年も勉強とけんきゅうを重ねました。
 数年の月日がたちました。数多い薬草の中からえらび出した薬草を用い、せいぞうほうほうをかいぜんしたけっか、新しい薬のせいぞうにせいこうしました。
 薬は、よくきくのでひょうばんがよく、店はだいはんじょうしました。そして、有栖川宮家(ありすがわのみやけ)のごようたしとしてさんだいがゆるされるようになったことから、その二字をとって、有川と名のるようにしました。
 当時は50人ばかりのしょくにんがはたらいていましたが、そのころ用いた昼食の合図を知らせるはんしょうが今も有川の家にのこっています。
 薬の名は、『お伊勢(いせ)七度 熊野(くまの)へ三度 お多賀さんへは月まいり……』とうたわれた多賀神社の神様の教えによってつくられたみょうやくといわれ、その上、赤いがん薬なので、赤玉の神教丸とあらためました。それは今から200年ほど前のことです。
 赤玉の神教丸が有名になったのは、多賀大社の坊宮が、全国にじゅんかいした時に持ち歩いたこと、旅をする人や、さんきんこうたいのしょ大名が国元へのみやげとして買いもとめたためだといわれています。
 もっともはんじょうした時は80人もの人がはたらき、せんぜんでもアメリカや中国とも取り引きがありました。

昔ながらのたたずまい
 同家のたてものは、宝暦(ほうれき)年間(1751年〜1763年)にたてられたもので、おもやは、当時のごうしょうの間で流行した八とうつくりで書院などが名高く、明治(めいじ)11年(1878年)明治天皇(めいじてんのう)が北国じゅんこうされたとき、お立ちよりになりました。そのときにたてた門が、今ものこっています。

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鳥居本(とりいもと)かっぱの父     坂田屋弥五郎(さかたややごろう)

弥五郎のゆめ
「もっとじょうぶなかっぱは作れないものだろうか。旅する人もぬれずにすむし、鳥居本も活気のある宿場町になるし……。」と雨にけむる丸太山をながめて少年弥五郎は考えこみました。
 今から280年ほど前、宝永(ほうえい)元年(1704年)のはだ寒い3月半ばのことです。15さいの少年弥五郎は、父や母から「元気でしんぼうして、まじめにつとめてこいや……。」とはげまされて鳥居本を後にし、中山道を大阪(おおさか)にむかいました。歩いているうちに、わらじが足にくいこみ、血がにじんできましたが、足のいたみにも負けず、坂田屋(さかたや)というかっぱ屋へ着きました。

大阪でのしゅうぎょう
「弥五郎よ、遠いところからよく来たな、きょうから番頭さんの言うことをよく聞いて、いっしょうけんめいはたらいておくれ。かならず一人前のりっぱなしょく人になるんだよ。」と主人はきびしいけれどやさしい言葉をかけてくれました。そのよくじつから5時に起こされ、朝食までにおくの部屋からげんかんまでのそうじです。水ぶきもするので、三日もたたないうちにあかぎれがきれました。それでも毎日毎日つづけなくてはなりませんでした。そのうえ、弥五郎はでっちぼうこうですから小づかいはもらえず、食事も大へんそまつなものでした。
 しかし、弥五郎は仕事をおぼえようと歯をくいしばってがんばりました。何とか雨に強いかっぱはつくれないものだろうか。いろいろとためしてみました。みの紙をなんまいもはり合わせ、油を何度もぬってくふうを重ねました。
 そしてついに、みの紙をはり合わす大切なのりをわらびから作り出すことにせいこうしました。わらびのねをたたきつぶし、それをこしてでんぷんを取り出し、日にほしてこなにし、使う時には水でとき、火にかけてのりじょうにし、ひやしてからしぶがきからとったしぶでうすめるのです。こののりは、ひじょうに強くかっぱにはさいこうのものになりました。また、みの紙をしぶにつけるとき一度よくもむと、油のつきもよくなり、紙にだんりょくせいができることも発見しました。
 このように、弥五郎は新しいことを考え、くふうをこらしてかっぱを作ったので、坂田屋のかっぱはひょうばんがよくなり店もさかえました。
 主人からもしんらいされ、期待にこたえて、15年という長い年月を、心をこめてつとめあげたのです。店のため全力をつくしせいちょうした弥五郎は、自分の店をもつことをゆるされました。「坂田屋が大きくなったのは、お前のおかげです。こきょうへ帰ってお前の考え出したかっぱをつくりなさい。坂田屋と名のるがよい。」と言われ、自分の店をもつことにしました。

かっぱ屋の弥五郎
 16年めに鳥居本に帰ると、主人からもらったお金で店を開くじゅんびをしました。今までの長いくろうが実をむすんだのです。
 屋号も「坂田屋」としました。自分で考えた作りかたを、自分だけのものにせず、村の人たちを集めて教えたので、かっぱ屋がふえました。「鳥居本のかっぱは、雨に強い、ながもちする。」とひょうばんがよく、旅をする人や、田畑ではたらく人たちから大へんよろこばれました。かっぱは今は使いませんが、弥五郎の名は坂田屋の弥五郎、かっぱ屋の弥五郎、鳥居本にいつまでものこっていくことでしょう。

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湖東やきをつくる     絹屋半兵衛(きぬやはんべえ)

絹屋がまのたんじょう
 彦根の船町は、彦根市役所の後がわで、いまではじゅうたくがいになっています。江戸(えど)時代のおわりころは、松原(まつばら)内湖がこのあたりまで広がっており、船つき場としてにぎわっていました。そこにごふくと古着をあきなう絹屋半兵衛の店がありました。半兵衛には子がなかったため石ヶ崎(いしがさき)町の八木田屋九衛門の長男新次郎(しんじろう)をようしにしました。
 半兵衛の死後、新次郎は半兵衛の名を受けつぎました。半兵衛はよく彦根と京都をおうふくして、ねっしんに商売にはげみました。京都にのぼるといつも清水(きよみず)寺のかんのんにおまいりし、清水坂(きよみずざか)や五条坂(ごじょうざか)がやきものの店でにぎわっているのを見て、いつしかやきものにきょうみをもつようになりました。また、そのころ原村のしゅぞう業仁衛門(じんえもん)がやきものを始めていたことにも心をよせていました。
 ある日、有田からやってきた一人のしょく人と出会い話し合ううちに、自分もやきものぎょうを始めようと決意しました。半兵衛はこのしょく人を彦根によんで、油屋町(=今の立花町)のふるぎしょう兵助とおくらてだい(はんのお金をあつかう役人)の宇兵衛をなかまに、し金を出し合う相談をしました。
 文政(ぶんせい)12年(1829年)はんからきょかをとると、芹(せり)川のそばの晒屋(さらしや)という所にのぼりがまをきずきました。そして、有田のしょく人をやとって、さっそくやきものづくりを始めました。

くなんをのりこえて
 はじめてかまからやきものが出される日、半兵衛たちは大きな期待をもって見つめていました。しかし、取り出されたやきものは形がくずれ、色つやのないものばかりで、とうてい売り物になりませんでした。」
 つづけていくことにふあんを感じながらも、ゆうきをふるってよく年2度目のかまを佐和(さわ)山に立てました。こんどは、みごとなやきものができたので、はんから用命を受けることになりました。ところが、湖東やきとして商売をするにはりえきが少ないので、なかまが手をひき、ついに半兵衛ひとりになってしまいました。その後は、半兵衛のしゅうねんともいえるど力がつづきました。さまざまな石やねんどをためし、くふうにくふうを重ねていきました。かまがこわれるというじこもたびかさなり、し金もふそくしましたが、はんから大金をかりて、のうりつてきな新しいかまに作りかえていきました。また、近くの物生(むし)山からほりだした石や敏満寺(びんまんじ)のねんどなどがやきものにてきしていることを半兵衛じしんが発見しました。こうして、他にるいを見ないやきものを作り出すのにせいこうしました。それは、うすいあおみがかった、湖東やきどくとくの味わいをもったものでした。

まぼろしの湖東やき
 半兵衛たちが14年もの間、くろうしてつくり出したやきものは、やっとはんにみとめられて、はんのちょくえいになりました。その後、多くの名工が数々のめいきをつくり出して、全国にその名が知れわたりました。しかし、江戸(えど)時代の終わりごろ、はんのじじょうから急におとろえてしまいました。
 明治(めいじ)に入ってからしばらくの間、ゆうしの手でさいこうされましたが、ながつづきはしませんでした。そのため、数々のめいきは、「まぼろしの湖東やき」と言われるようになり、げんざいもきちょうひんとして大切にほぞんされています。

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「彦根バルブ」のがんそ     門野留吉(かどのとめきち)

かざり金の仕事
 留吉は弘化(こうか)4年(1847年)2月15日、犬上ぐん開出今村(彦根市開出今町)の尾本万次郎(おもとまんじろう)の二男に生まれました。おさなくして京都のかざりせいぞうぎょう浅田(あさだ)がたにでしとしてほうこうし、かんざし・こうがいなどの細工物を習い、明治(めいじ)5年(1872年)26さいで年期を終えて自分で開業しました。また、しんせきの門野勘次(かどのかんじ)のむこようしになったので、彦根市上魚屋町(本町二丁目)にうつり、明治20年ごろまでは、もっぱらかざり金の仕事をし、でしもかなり多かったようです。留吉はこがらな人で、いしが強くて、かざり気がなくさっぱりしたせいかくで、つねにきんべんでどりょくをおしまず仕事をしました。それで、でしたちのよい手本になりました。

カランせいぞうへ
 ところが、信州(しんしゅう)でせいしこうじょうをけいえいしている人が、えい国せいボイラーにひつようなじょうきようカランをもとめに神戸へ行くとちゅう、彦根にたちより、きような留吉にすすめて、カランを作らせました。また、そのころ彦根にはせいしこうじょうがたくさんあったことから、工場へカランをおさめていた大阪(おおさか)の問屋、大野茂三郎が、留吉にカランのしゅうりとせいぞうをたのんだともいわれています。このようにして留吉は、カランのせいぞうに力を入れるようになりました。

バルブにせいこう
 さらに、大野茂三郎は、バルブ・コックのせいさんをすすめて、せいぞうほうをしどうしました。留吉はぎじゅつを身につけると、せいぞうにはげみました。当時は、ぞうせんや水道工事がさかんに行われ、バルブ・コックがひつようになっていたので、仕事はたちまちいそがしくなりました。
 しかし、留吉の工場は、じたくの一部をかいぞうして仕事場にあてた小さなもので、数人のしょっこうと弟子が、門野家にどうきょして、朝早くから夜おそくまで仕事をしました。
 そのころのせんばんは、ふりまわししきじんりきせんばんで足ふみによって動かすものでした。また、作業は、はじめから仕上げまでひとりでするというほうほうでした。工場で使うるつぼは、すやきつぼにもみぬかをまぜたねんどをぬり重ね、炭火でかんそうさせたものを用いました。
 冬の寒い日、ねんどぬりの仕事は大へん苦しい作業であったといわれています。それに火づくりにはふいごが使われましたが、数人のしょく人が向かい合って「たたら板」をふんでの作業だったので、これもじゅうろうどうの苦しい仕事でした。今とちがって、せつびも悪くたいへんくろうも多かったようです。
 そんな中で留吉は、明治28年(1895年)に東京や京都からじゅくれん工をよんでけんきゅうにせんねんし、一日中、工員といっしょにあせを流し、でしたちのしどうにあたりました。そしてせつびを少しずつじゅうじつしながら、げんざいの彦根バルブのもとをきずいていったのです。

林新太郎のバルブ
 同じころ、芹(せり)川町にいた林新太郎は、荒(あら)川てっこう所にすすめられてうでようポンプを作りおおさかの問屋へおさめていましたが、明治34年(1901年)小がたせんてつバルブを作り出しました。これは、門野けいとちがって、自分のせっけいによって市場せいさんをし、問屋にちょくせつおさめるほうほうをとりさかえました。

※せんてつはてっこう石をとかしてたんそをくわえた鉄のこと。

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彦根が生んだ実業家     児玉一造(こだまいちぞう)

 一造は、明治(めいじ)14年(1881年)貞次郎(さだじろう)の長男として、彦根町に生まれました。明治33年八幡(はちまん)商業学校をそつぎょうして、静岡(しずおか)商業学校のじょきょうゆになりましたが、まもなく三井物産(みついぶっさん)会社支那(しな=今の中国)ちゅうざいの社員になりました。
 大正元年(1912年)帰国して、本社のさんじになり、つづいて名古屋(なごや)し店長、ついで大阪(おおさか)してんのめんかぶちょうになりました。その後、アメリカにしゅっちょうしたり、東洋綿花(とうようめんか)会社をそうりつしたりして、めんかさんぎょうのはってんのためにど力したので、わたぎょうかいにおけるこうせきはとても大きいものがあります。
 また一造は、豊田佐吉(とよださきち)のよきりかい者であるとともにこうけい者であって、佐吉のぼうしょくき発明のためのしきんえんじょもして、けいえいはあまりとくいでない佐吉を助けました。人ぼうもあつく、豊田紡績(とよたぼうせき)、菊井紡織(きくいぼうしょく)などかく会社の重役になったり、いろいろなこうしょくにもついてかつやくしました。

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豊田紡績(とよたぼうせき)の大黒柱     豊田利三郎(とよだりざぶろう)

 豊田利三郎は、明治(めいじ)17年(1884年)彦根町で生まれました。兄は児玉一造(こだまいちぞう)です。利三郎は、彦根中学、神戸高商、東京高商せんこうかをそつぎょうして丸紅(まるべに)につとめましたが、32さいのとき、はつめいおう豊田佐吉(とよださきち)のむこようしになりました。豊田佐吉は、発明家としては天さいでしたが、事業家として理想をおいすぎるところがありました。そうした中で、利三郎はじみちなかいしゃけいえいをたんとうし、えんの下の力になって、仕事をしたので、豊田の事業は、きそができ、さらに大きくなりました。
 とくに、大正元年(1912年)自動織機(じどうしょっき)のじっけん工場として豊田自動織布(とよたじどうしょくふ)工場をそうりつし、さらに原糸のじきゅうのため紡績(ぼうせき)工場をせつりつして、こうていのいっかんさぎょうをかんせいし、大正7年同工場をもとに豊田自動織布かぶしき会社をそうりつしたのは、佐吉とともにかたうでとしてはたらいた利三郎のかつやくが大きかったのです。利三郎は、また多才多趣(たさいたしゅ)でとくに、ばんねんは茶の湯を楽しんだことはよく知られています。

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生命(せいめい)ほけん会社のそうせつ    弘世助三郎(ひろせすけさぶろう)

 げんざいの日本生命のきそを作った弘世助三郎は、彦根に生まれました。
 青年助三郎は、「済世救民(さいせいきゅうみん)」のこころざしがあつく、新しい事業にもかんしんをもっていました。
 彦根の銀行につとめ、また県会ぎいんにもなり、明治(めいじ)15年(1882年)多賀(たが)神社の豊賛講(ほうさんこう)を中心とする、多賀寿生命保険(たがことぶきせいめいほけん)会社のせつりつにたいへんど力しましたが、けっかはよくありませんでした。
 明治21年(1888年)、日本生命ほけん会社のそうせつについて相談を県ちじにもちかけ、そのじゅんびをはじめました。
 明治22年、31さいのわかさでこの新事業にじょうねつをかたむけました。
 滋賀(しが)県ちじをはじめ、関西(かんさい)ざいかいの有力者にはたらきかけたけっか、助三郎のねついにより14人のさんどうしゃができました。
 ついに22年の7月28日、会社のせつりつそうかいを大阪で開き、「日本生命」会社が発足しました。助三郎はとりしまりやくになってかつやくしました。

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ぼうせきぎょうのはってんにつくす     夏川熊次郎(なつかわくまじろう)

会社せつりつ
 夏川熊次郎は、明治(めいじ)4年(1871年)6月2日、きゅう彦根はんし夏川英三の長男として今の彦根市後三条(ごさんじょう)町で生まれました。その年ははいはんち県が行われた年でした。
 熊次郎は、彦根中学(=今の彦根東高等学校)をそつぎょうして、はいはんごのしぞくしょくさんのもくてきでけんせつされた彦根製糸場(せいしじょう)で仕事をしている父、英三をてつだいました。そのころ、熊次郎は町会ぎいんとして町のせいじにもつくしました。
 絹糸紡績原料(けんしぼうせきげんりょう)のゆしゅつぎょうをしているとき、横浜(よこはま)外国かんと取引きするため横浜に行きましたが、そのとき、横浜の掃部(かもん)山にある開国のおん人井伊(いい)たいろうのどうぞうをあおぎながら、地ほうさんぎょうのしんこうとぼうえきはってんに一生をささげる決心をしました。
 大正6年(1917年)8月、絹紡糸(けんぼうし)のはんせいひんのせいぞうと、それをゆしゅつすることを思い立ち、地元のゆうしにはたらきかけて、しほんもけいえいもすべて地元一色で、『近江絹綿(おうみきぬわた)かぶしき会社』(後のオーミケンシかぶしき会社)をせつりつしたのです。

苦しいけいえい
 熊次郎は社長にはなりませんでしたが、社長をはじめ重役やかぶぬしのしんようはあつく、会社のけいえいは熊次郎が中心になって行われました。
 会社がつくられた時は、だい一じせかいたいせんの終わりころで、けいきがわるくなってきました。しかも、大正12年(1923年)には、かん東大しんさいがおこって、国全体がふけいきにみまわれました。そのため、事業をちぢめたり人員を整理したり、またとうさんする会社もたくさん出ました。そうりつご、日もあさい会社のうんえいにあたる熊次郎のくろうはそうぞういじょうのものでした。
 このため、大正14年には、けんぼう機のしはらいができずきかいをさしおさええられたこともありました。熊次郎は、とほうにくれる重役たちに、かぶをたんぽにしてお金をかりることを考え、機会の会社からのさしおさえを待ってもらいました。
 また、じゅうぎょういんにきゅうりょうをはらうお金がないので、熊次郎は銀行へしゃっ金に行きました。銀行がわは会社のちょうぼを調べて、
「おたくの会社はれんがだてだからねうちがありません。れんがだてでは、こわすのに手間がかかるだけで、あとは何の役にもたちません。」
と言って、お金をかしてくれません。熊次郎は昼夜のべつなく死にものぐるいで金さくにかけまわり、やっときゅうりょうをわたすことができました。
 昭和5年(1930年)には、きいとの値(ね)が大きくさがり会社のけいえいはゆきづまりました。熊次郎は、はれもののしゅじゅつを受けながらも、金さくのため京阪(けいはん)ほうめんへしゅっちょうしました。そのためしゅじゅつの手当てがおくれて丹毒症(たんどくしょう)にかかり、一生を終わりました。
「ふけいきはいつまでもつづくものではない。かならずよい時が来る。こういうとき、苦しいのは自分のところだけではない。どの会社も同じだ。さいごの5分間、しんぼうができたものがいきのこれるしはってんもする。」
これが熊次郎のしんねんでした。
 夏川熊次郎はさいごまで、“ちほうさんぎょうのしんこう・ぼうえきはってんのためにつくす”ことをわすれず、ふけいきにもくじけることなく、今日のような会社のきそをきずいたのです。

※丹毒症は皮ふなどの外しょうぶかられんさきゅうきんが入って起る、きゅうせいのでんせん病のこと。

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銀座がいのはってん     宮本寿太郎(みやもとじゅたろう)

 寿太郎は、明治(めいじ)25年(1892年)に生まれました。彦根中学(=今の彦根東高等学校)をそつぎょうすると父の店(高嶋屋(たかしまや))をつぎました。
 寿太郎は小さいころから理数科にすぐれ、ラジオや、オートバイなどのきかいいじりがすきで、いろいろな発明をしてたくさんとっきょをとりました。とくにげたのせいぞうでは、それまで手仕事で作っていたのを、きかいを使って、せいぞうできるようにし、また、うるしぬりなども考えてげたせいぞうのとっきょをとりました。そして、じゅうぎょういんが50人ぐらいの会社にして、外国にいる日本人にもゆしゅつしました。
 その一方で、じゅたろうは、昭和8年(1933年)に県下でさいしょのまるびしひゃっかてんの社長になったり、せんごは、えいがやしばいができるだい一げきじょうのこうぎょうも始めました。このようにして、彦根のさんぎょうはってんにつくしました。

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町の発明家     毛利勘次郎(もうりかんじろう)

 勘次郎は美濃(みの)の国(=今の岐阜(ぎふ)県)からうつりすんだせんぞの仕事をついで、江戸(えど)町(=今の京町二丁目)で米こく商をいとなんでいました。明治(めいじ)すえころのせい米は、きかいうすに、ひとにぎりのみがきすなをまぜてせい米していました。このほうほうは、ゆうがいなすなを使用しているうえ、たいへん、味が落ちるというけってんがありました。
 そこで、けんきゅうねっしんな勘次郎はかいりょうを重ねたすえ、ついに「墳風式(ふんぷうしき)六角掲室(けいしつ)無瑕(むきず)精米法(せいまいほう)によるモーリー精米機(せいまいき)」を発明し、無砂づきによる新しいせい米ほうほうを実用化することができました。
 このほうほうは、さいしょは、ひろまりませんでしたが、東京への進出をはたしてからは次々と広まり、ついに混砂(こんさ)米をなくすまでになりました。その子、勘太郎(かんたろう)はこれをかいりょうし、じどうちょうせつきのうのついた「ゴールドモーリー精米機」を発明しました。
 いご日本の精米機はこのけいしきにかわりました。

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食用ガエルのりょうり     谷澤賢治(たにざわけんじ)

カエルのししょくかい
 昭和3年(1928年)滋賀(しが)県下のかく地で北米げんさんの食用ガエル・ブルフロッグをりょうりして食べようというししょく会が行われました。カエルを食べるのですから、さいしょは気味が悪くて、みんなためらいましたが、食べてみるととりにくのようなたんぱくな味で、大へんおいしい肉でした。それからは、めずらしい食用ガエルのりょうりが話題になりました。
 食用ガエルが日本にゆにゅうされたのは大正7年(1918年)で、大正9年に滋賀県水さんしけんじょうでようしょくしけんが行われました。ようしょくが進んで、いよいよ食べることになったのですが、はじめてカエルを食べるのですから、これをりょうりする人がいません。そこで、当時、ひこねでしょくどうを開いていた谷澤賢治がえらばれました。
 賢治は西ようりょうりがとくいでしたから、さっそく食用ガエルをスープやフライに調理して、ししょく会のテーブルにならべました。おしよせたお客は、口ぐちに「おいしい、おいしい」といってひょうばんになりました。
 賢治のしょくどうは、ししょく会でひょうばんになった食用ガエルのりょうりを食べてみようというお客さんで、毎日にぎわいました。また、食用ガエルをようしょくする業者もふえて、彦根をはじめ県ないかくちでは食用ガエルブームでわきました。

西ようりょうりてん
 西ようりょうりの店として橋本町(芹橋(せりばし)二丁目)に賢治がしょくどうを開いたのは、大正11年(1922年)のことでした。それまでは、彦根に西ようりょうりの店がなかったので、お客さんはカレーライスやステーキ、カツレツなどのメニューがどんなものか知りませんでした。それで、店の主人に「みはからいねがいます。」と言って注文を通しました。すると調理場にいる主人のけんじは、「お客さんはお酒を飲んでおられますか?それともご家族でお食事においでですか?」とたずねます。
 これは、メニューを知らないお客さんのために、一番よろこんで食べてもらえるりょうりを考えようという心くばりがあったからです。
 さらに、西ようりょうりをおいしく食べてもらうには、トマト・パセリ・レタスなどの西ようやさいがひつようでした。そこで、アメリカから帰ってきた大藪(おおやぶ)町の農家の人に作ってもらうなど、ざいりょうあつめにも大へんくろうをかさねました。

一級のりょうりを
 賢治は、明治(めいじ)27年(1894年)福満(ふくみつ)村おおあざ平田(=今の平田町)に生まれました。その後、大阪(おおさか)に行きじんじょう小学校をそつぎょうすると、かいさんぶつ問屋にほうこうに出ました。そして、父が北海道へはたらきに出ている間、母とともにおさない弟を養なっていました。
 そうしたとき、西ようりょうりを習ってみないか、とすすめてくれる人がいたので、神戸の店でいっしょうけんめいに勉強して、一人前のちょうりしになりました。
 ちょうりしになった賢治は、国鉄のしょくどうしゃで、しゅにんコックとして数年をすごしたあと、27さいのとき、きょうりの彦根で西ようりょうりてんを開きました。
 彦根に帰った賢治は、開店したしょくどうで西ようりょうりをつくるかたわら、かく地のしょくどうやふ人会、およびようけい組合のりょうりこうしゅう会にまねかれて、西ようりょうりのふきゅうにつとめました。

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ますづくりにせいを出す     日比野弥之助(ひびのやのすけ)

 明治(めいじ)34年(1901年)京都に生まれ、しゅうせんの年、人じいどうで彦根へたんしんでふにんすると、今の城(しろ)町一丁目でふっこう資材(しざい)やへいしゃよう家具などを作っていましたが、本社から「さいさんが合わないから帰れ。」と命じられました。しかし「社員と運命をともにする。」といって、会社をどくりつさせてもらいました。
 工場の一室にねとまりりし、電気のきょうきゅうが夜中しかなかったので、夜に仕事をしました。はいせんで、いしょくじゅうすべてに苦しい生活がつづきました。役員は金をもらわないでも社員にちん金をはらって、やっと会社をいじしました。
 このようなくろうの中で、昭和24年(1949年)、つうしょうさんぎょうだいじんより、木せい体せき計のせいぞうきょかを受け、ますのせいぞうを始めました。
 しょくりょうなんであったことから、当時日本人はしょくりょうにはひじょうにびんかんであり日本人とくゆうのきちょう面さから、計り売りをする時、ますがひつようになり、農村のすみずみまで行きわたったのです。

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味づくりは人づくりから     小林庄平(こばやししょうへい)

 河瀬(かわせ)学区で、「関東庄平(かんとうしょうへい)さん」「庄平(しょうへい)さん」と、今も親しまれている小林庄平は、南河瀬町で生まれ、河瀬小学校で学びました。
 せい人すると父、善吉の後をついで埼玉(さいたま)県の入間(いぬま)川でしゅぞう業を始め、さらに日本の酒所東灘(なだ)区の魚崎(うおざき)町にも工場をつくりました。
 親子そろって「味」にうるさい人で、酒のげんりょうである米や水、こうじをてっていてきにけんきゅうしました。また、味づくりのもとは、せいじつな人の心にあると考え、番頭やでっちのしつけにもきびしかったと言われています。
 庄平さんも、父親の善吉さんも、河瀬から遠くはなれて住んでいても、ふるさとを思う気持ちは、人一倍強く、河瀬小学校に和室をきぞうしたり、地いきのほいくえんのけんせつし金を出したり、地いきへのきょう力をおしみませんでした。

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松前(まつまえ)ぎょ業のさきがけ     田付新助(たづけしんすけ)

みかいの北海道へ
 せん国時代から、安土桃山(あづちももやま)時代にかけて、外国へ行こうと考える人が多くなり、太平洋のあらなみをのりこえて、ぼうえきをしようとしました。とくに南の方へ進出しようと考える人が次々と出てきましたが、当時の「蝦夷島(えぞじま)」(=今の北海道)へは、だれも行こうとはしませんでした。しかし、安土桃山時代に北へ進もうと考え、松前ぎょ業(北海道でのぎょ業)を始めたのが柳川(やながわ)の田付新助でした。
 新助は、天正(てんしょう)9年(1581年)愛知郡(えちぐん)稲(いな)村の柳川(=今の柳川町)に生まれました。14さいの時にぶしの身分をすてました。それは、家がらにとらわれず、自由な身分になって、自分の思うことをぞんぶんにやってみたかったからでした。新助は、松前へ行ってぎょ業をしたいという考えを同じ村の建部七郎衛門元重(たてべしちろうえもんもとしげ)に相談しました。松前のじじょうをよく知っていた七郎衛門は、大いにはげましてくれました。
 松前にわたった新助は、いろいろな土地をめぐりました。ある時は野宿をしたりある時は海岸でねたりして、その間、何回もきけんな目に出会いました。しかし、そのきけんをおかしたおかげて、松前地ほうは海のさんぶつがたいへんゆたかであることがわかり、その水さんぶつをとるぎょ業をおこし、ぎょかくぶつを内地に送ろうと、むねをおどらせてきょうりに帰ってきました。

せいこうまでの道
 しかし、松前ぎょ業をせいこうさせるためには、問題点が二つありました。それは、し金となかまをどのようにして集めるかでした。新助は多くの人によびかけ、松前ぎょ業の計画を話し、ついにきょうどの柳川・薩摩(さつま)を中心に「両浜(りょうはま)組」という組合をつくることにせいこうしました。
 そして、この地方をおさめていた松前はんしゅのほごを受け、両浜組のなかまできょう力しあい、蝦夷島のかく地にぎょじょうを開いて着々とぎょうせきをあげていきました。新助はまた、ぎょぐをかいりょうしたり、ぎょかくぶつをかこうしてしょ国に送り出すなど、今日の北海道ぎょ業はってんのきそをきずきました。
 ぎょかくぶつのうんぱんは、松前より日本海のあらなみをふねで乗りきってつるがに着き、ここでりくあげげして、近江(おうみ)と越前(えちぜん)の国きょう、しちりはんごえの山道を牛馬に乗せて塩津(しおつ)や海津(かいづ)に運び、湖上の舟運(しゅううん)をりようして柳川に持ち帰り、かん西のかく地にきょうきゅうしたり、また京都や大阪(おおさか)に運びました。

ぎょうせきのあと
 北海道の開発者であり、きょうどの開発者でもある田付新助は、寛永(かんえい)9年(1632年)52さいでなくなりましたが、そのしそんも代々田付新助を名のり、せんぞのこころざしをついで松前商人としてかつやくし、北海道やきょう土のはってんのためにつくしました。
 げんざい「海上安全常夜灯(かいじょうあんぜんじょうやとう)」の文字のきざまれた石柱のたっているぼうはていは、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)に田付新助のしそんがきずいたものであり、当時の柳川こうのはんえいがしのばれます。

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北海道へ     建部七郎右衛門元重(たてべしちろうえもんもとしげ)

 建部七郎右衛門元重は、天正(てんしょう)16年(1588年)に、やさいのしゅしの行商人として、北海道の松前(まつまえ)に行きました。
 北海道では、松前はんのじょうきょうをよくしさつして、ふそくしている品物が米やみそなどであることを調べ、小浜(おばま)、敦賀(つるが)(福井(ふくい)県)から松前に送り、松前からは、ざい木をつみこんで持ち帰り、ざい木やとして大せいこうしました。
 きょうりの大宮神社には、七郎右衛門がきふした絵馬額(えまがく)がのこされています。

※絵馬額は、寺社にきがんのためほうのうされたがくのこと。

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行商から身をおこす     不和弥三郎(ふわやさぶろう)

 安永(あんえい)2年(1773年)高宮で生まれた不和弥三郎は、天明(てんめい)2年(1782年)に10さいで近江八幡(おうみはちまん)の松前屋弥三兵衛(まつまえややさべえ)のもとにほうこうしました。天明8年京都で大火事があって19万戸ほどやけた時、京にいた弥三郎は、店の金銀をいどに投げ入れてこれを守り主人にほめられました。寛政(かんせい)2年(1790年)に一人立ちをするため、店をやめて高宮に帰り、信州(しんしゅう)(=今の長野県)を中心に、東海道・東山道・北陸(ほくりく)道にかけて行商にはげみました。
 きょまんのとみができてからは、永楽屋弥三郎(えいらくややさぶろう)と名のり、天保(てんぽう)8年(1837年)には、みょうじたいとうをゆるされるほどの商人になりました。これは、当時、さいこうのめいよでした。嘉永(かえい)4年(1851年)に79さいでなくなりました。

※みょうじたいとうは、江戸(えど)時代にぶしいがいの人がぶしにじゅんじたしかくをあたえられること。

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大商人へゆめかける     西田庄助(にしだしょうすけ)

 庄助は天明(てんめい)2年(1782年)に西野波(にしのなみ)に生まれ、ようみょうを善之助(ぜんのすけ)といいました。15さいの時、おじ弥三郎の店にほうこうしましたが、ある日「お前のようなせいかくでは商人にむかん。むしろひゃくしょうの方が合っている。」と言われたので、店をとび出し、父より1両の金をもらって商(あきな)いを始めました。2年間、たたみおもてやとうしん、とうきを売り歩いて、おじの言葉をわすれずつとはげみました。18さいの時、庄助とあらためましたがそのときのしきんは18両にふえていました。それをもとでにしてこまものを仕入れ、さらに行商につとめました。庄助はつねにこしべんとうでせつやくに心がけ、おとくいさきをうしなわぬためには、ひんぱんに顔を出すべきだと1年に20回も美濃(みの)(=岐阜(ぎふ)県)へ出かけしんようをえました。20さいの時には、持ちくだり商人として京・大阪(おおさか)の商品を飛騨(ひだ)(=岐阜県)・信濃(しなの)(=長野県)へも売りさばく大商人になりました。安政(あんせい)元年(1854年)11月に73さいでなくなりました。

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北海商人     吉田與三平(よしだよさへい)

 文政(ぶんせい)11年(1828年)土田に生まれた與三平は、ようみょうを亀之助(かめのすけ)と言いました。15、6さいの時によう父とともに北海道の福山地方まで行商しましたが、嘉永(かえい)4年(1851年)よう父の病死によって、與三平の名をつぎました。與三平は、何とかせいこうしたいという気持ちから、行商をつづけました。そして、ついに600石ずみの船を買うことができました。まず、與三平の順徳(じゅんとく)丸は、本州(ほんしゅう)の品物を北海道へはこんで売り、帰りには北海道のぶっさんを本州で売るというほうほうで商売をしました。商売は、じゅんちょうにはんえいをつづけ、長栄(ちょうえい)丸・永徳(えいとく)丸・潤宝(じゅんぽう)丸・永吉(えいきち)丸という5せきの船を持つまでにせいこうしました。
 また、「農業は天下の大本なり」と考えて、多くの水田をこうにゅうしてしが県一の土地所有者になり、高宮村長や村会ぎいんとしてもかつやくしましたが、明治(めいじ)41年(1908年)81さいでなくなりました。

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商売の「こつ」はまず勉強     川上市三郎(かわかみいちざぶろう)

ど力の人

   山川は今も昔に変(か)わらねど
   我(わ)が心のみ かわりつるかな

 これは、川上市三郎が昭和4年(1929年)じたくの庭にたてた石ひにきざんだ自作の歌です。当時73さいでしたが、おだやかな中にかがやくりょうがん、ゆたかな大きな耳たぶ、色つやある顔色は、ごうしょうのふうかくをそなえていました。
 市三郎は、安政(あんせい)4年(1857年)12月20日に大ぼり町で生まれました。農業をいとなむ市三郎の二男で、小さいころからするどいどうさつ力を持ち、何事もさいごまであきらめないという強い心の持ち主でした。
 7さいの時から父の仕事をてつだって、日がくれるまでがんばりました。
 明治(めいじ)10年(1877年)4月10日に、おばからかりた10円をしほんに友人と商品を仕入れ「それを売りつくす」と心に決めて売り歩きましたが、なかなか売れませんでした。遠くまで売りあるき、加賀(かが)(=石川県)をへて長野の善光寺(ぜんこうじ)までも行ってしまいました。帰りは、尾張(おわり)(=愛知(あいち)県)・美濃(みの)(=岐阜(ぎふ)県)をへて湖北地方に入りました。木之本(きのもと)・長浜(ながはま)あたりでようやく商品を売りつくし、なつかしいこきょうの土をふんだのは、73日目の6月23日でした。荷物をふり分けて天びんぼうでかついで歩きました。こうしたなかで、もともとのしんぼう強さがいちだんとまし、くわえてしんこうあつい近江(おうみ)商人にせいちょうしていました。17さいのときでした。
 その後も「自分の道は自分でかいたくする」というしんねんのもとにど力しました。
 明治16年から22年までの間に、讃岐(さぬき)(=香川(かがわ)県)で1300円ほどのりえきをあげました。「商売の第一は勉強で、ひんしつとねだんとがつり合えば商品は売れる」と考えました。この考えは、近江商人のしんねんとじょうどしんしゅうのせいかつしんこうから生まれたものといわれています。
 また、市三郎は社会のきょうどうはってん、国みんせいかつの向上ということがいつも頭からはなれませんでした。それで、じぜん事業にきふすることをおしみませんでした。
 そして、昭和9年(1934年)1月9日にこきょうの大堀(おおぼり)町のじたくでなくなりました。ときに78さいでした。

明治30年   難民救済(なんみんきゅうさい)(天災などで苦しんでいる人を助ける)
明治32年   窮民救恤(きゅうみんきゅうじゅつ)(お金に困っている人を助ける)
明治37年   出征軍人家族困窮者(しゅっせいぐんじんかぞくこんきゅうしゃ)へ       50円
明治45年   千本(ちもと)小学校用地買収費(ばいしゅうひ)へ                100円
昭和 3年   岩清水神社(いわしみずじんじゃ)社務所建築(しゃむしょけんちく)     1000円
昭和 8年   大堀(おおぼり)公会堂建築(こうかいどうけんちく)               300円


 市三郎が社会のためにきふしたお金は、生活にこまっている人々を助けたり、こうきょうのたてものをたてるために使われています。

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近江麻布(おうみまふ)商人     堤惣平(つつみそうべえ)

 中山道の宿場町高宮は高宮布(ぬの)で有名でした。井原西鶴(いはらさいかく)の「本朝(ほんちょう)町人鑑織留(かがみおりどめ)」の中にも江州(ごうしゅう)高宮ぬのの名まえが出ていますし、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「続膝栗毛(しょくひざくりげ)」の中にも「名物(めいぶつ)の高宮嶋(しま)−縞(しま)−さらしぬのるいごようなら、わしのところで買うて下さりませ」と店員が弥次(やじ)・喜多(きた)によびかける場面があります。
 室町(むろまち)時代から売り出されたという高宮布は麻布(まふ)(絹麻(きぬあさ))で、ごくほその糸を使っていたことから高宮細布(さいふ)、細美(さいび)とよばれてちんちょうされました。
 江戸(えど)時代になると、彦根はんが彦根のとくさんぶつとしてほごしたので、愛知郡(えちぐん)いったいの農家のふじょしがふくぎょうとしてさかんに麻布をおりました。高宮はその問屋がいで麻布の集さん地でした。そのうえ、かこう業者もそれぞれの問屋にふぞくしていたので、問屋せいしゅこう業のそしきが早くからできていました。
 堤惣平は、文政(ぶんせい)7年(1824年)に「布惣(ぬのそう)」、−布屋(ぬのや)惣平−の三代目として彦根に生まれました。惣平は、日ごろからひようのせつやくをだい一に考えて、きめ細かく、手落ちのないくらしぶりでした。たとえば、書きそこなって、ふようになった1まいの紙でもむだにしないでほぞんしたり、30センチほどのくず糸ものこしておいて、また使うというようにしました。こうしてお金をたくわえると、高宮町の中心いち、中山道ぞいに大きな店を新ちくしました。しかも、店をたてるときも、店員や家族の者に壁下竹(かべしたたけ)のわり方・なわのつくり方・むすび方などを教え、みんながきょう力して作業をてつだうようにさせました。
 かい道すじに店をかまえてからは、高宮布を全国てきにせんでんして、はんろをかくだいすることにせいこうしました。
 問屋と小売業をかねた「布惣」−布屋惣平−は、能登川(のとがわ)の「あべ」五個荘(ごかしょう)の「やまなか」とかたをならべ、「県下三福の一つ。」といわれる大きな問屋になりました。こうして布惣は、7つのくらはいつも麻布であふれ、したうけの8けんの仕立て屋がおおぜいの人を使って毎日仕事をつづけても注文におうじきれないほど、はんじょうしたということです。
 惣平が、家人へのきょうくんとしていたことは、
「人の一生にはせいすいがあるもので、ゆうふくなときにはゆだんして、けんやくすることをわすれてしまい、きんろうがおろそかになる。そうすれば、高宮布はんばいの家業は、しだいにおとろえてしまう。ざいさんは決してあてにしてはいけない。」ということでした。
 のちに、高宮布はんばいぎょうを四代目にまかせていましたが、明治(めいじ)24年(1891年)10月28日、惣平(三代目)は68さいでなくなりました。
 明治の中ごろから絹(きぬ)や綿(めん)におされて、高宮布はだんだんすたれましたが「布惣」だけは商売をつづけて明治まっきまでただ1けん、しにせのほこりを守りつづけていました。
 しかし、明治44年ごろに、時代の流れにおされ、ついにはんえいのれきしをとじました。

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綿花(めんか)のぼうえき商     北川與平(きたがわよへい)

 安政(あんせい)2年(1855年)彦根に生まれた北川正太郎(きたがわしょうたろう)(與平)は、家業を切りまわしていたそぼに死なれ、そのうえ北海道での事業にしっぱいしてはだかいっかんになったので、横浜(よこはま)で不破弥惣平(ふわやそべい)といっしょに綿糸布(めんしぬの)のゆにゅうを始めました。
 日清戦争(にっしんせんそう)(1894年〜5年)が終わると、綿花がよく売れたので、これからはぼうせき業の中心が大阪(おおさか)にうつるだろうと考え、神戸と大阪(おおさか)に綿花ゆにゅう商てんを開きました。そして、岡山(おかやま)県のぼうせきこうじょうを買って綿糸(めんし)をせいさんしました。ぼうせき業がさかんになると、国さんの綿花に中国綿花をくわえただけではげんりょうがふそくしました。そこで、インド綿花やアメリカ綿花をゆにゅうしようと考えて、明治(めいじ)38年に、江商合資(ごうしょうごうし)会社(のちかぶしきがいしゃ)をせつりつして大がかりな商売をしました。このようにして、大阪綿(めん)ぎょうかいでかつやくした與平は、綿花のゆにゅうや綿せいひんのゆしゅつで先人になりましたが、昭和4年(1929年)に75さいでなくなりました。

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北海道で米づくり     石橋彦三郎(いしばしひこざぶろう)

 彦三郎は安政(あんせい)2年(1855年)彦根で生まれました。
 明治(めいじ)8年(1875年)に、北海道へわたって父の店でおりもの問屋を始めましたが、新たに大豆のせいさん地であった北海道で、しょうゆをつくる工場をつくりました。そして、ぎじゅつ者をまねいて味のよいしょうゆをつくることにしんけつを注ぎました。また、寒い北海道で米づくりができないものかと考え、この土地に合ったいねのひんしゅかいりょうに力を入れました。彦三郎は、ど力にど力をかさねて、ついに寒い北海道でも、りっぱに実るいねのさいばいにせいこうしました。
これによって、北海道さんの米がかく地に売り出されるようになりました。
 きょうりの彦根に帰った彦三郎は、大正6年(1917年)7月に、63さいでだい十二代彦根町長になりました。じつ業かい出身の町長としては、彦根ではじめてでしたが、町のざいせいたてなおしにど力しました。

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近江(おうみ)商人の心いき     馬場儀太郎(ばばぎたろう)

 慶応(けいおう)3年(1867年)甲良(こうら)に生まれた儀太郎は、高宮へようしにきました。そして、こころざしを立てて兄弟二人できょう力しながら北海道で、ごふくの行商をつづけました。そして、小樽(おたる)にごふくの大だな「神野(じんの)商店」をつくり、東京には仕入れ店を出すほどの商人になりました。このころ儀太郎は、100万円もうけることをもくひょうにかかげてど力したといわれています。
 大正2年(1913年)には、もめん・糸の工場「大正製綿(せいめん)」ほか、5つも工場をたてましたが、大正15年6月に60さいでなくなりました。二代目儀太郎は、さらに箕福(みのふく)工場をぞうせつするなど事業をさらにはってんさせました。
 昭和13年(1938年)には、「地いきのためにつくせ」というせんだい儀太郎のいしを受けたみぼう人八重(やえ)のきふ金によって、高宮小学校のこうどうがけんせつされました。

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「商社」をそうせつした     伊藤長兵衛(いとうちょうべえ)

 長兵衛は、明治(めいじ)2年(1869年)犬方の若林又三郎(わかばやしまたさぶろう)の三男に生まれました。又三郎は、しょだい伊藤長兵衛のところに見習いとしてつとめましたが、明治17年、長兵衛のようしになって二代目長兵衛を名のりました。しょだい長兵衛は、京都に店をかまえていましたが、弟の伊藤忠兵衛(いとうちゅうべえ)は、大阪(おおさか)に店を開きました。二代目長兵衛は、どんな時でもむりをしないしょうほうで、店もはんじょうしりえきをつみ上げていきました。そして、大正10年(1921年)本家と分家がごうぎして「まるべに商店」をそうせつし、そのしょだい社長にしゅうにんしました。
 長兵衛は、その後、かん西じつ業かいのじゅうようなちいにつきましたが、きょうりのためにと豊郷(とよさと)病院をたててきふしたり、芦屋(あしや)にぶっきょうかいかんをけんせつしたりして、こうきょうのために大いにつくしました。
 昭和16年(1941年)に73さいでなくなりました。


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