にぎわうじょう下町

 彦根の町は、慶長(けいちょう)8年(1603年)から始まったちくじょうと、それにつづくじょう下町のけんせつでたんじょうしました。やく20年かんにわたって、あちらこちらにけんちくや土木工事のつち音がひびいて、活気のある町づくりが行われました。そして、じょう下をさむらいの町・あしがるの町・町人の町に分けて、さかいにほりをつくりました。こうして彦根はん35万ごくにふさわしいじょう下町ができあがりました。
 町人の町には、本(ほん)町・四十九(しじゅく)町・魚屋(うおや)町・佐和(さわ)町・細工(さいく)町・大工(だいく)町・鍛冶屋(かじや)町・桶屋(おけや)町・職人(しょくにん)町・瓦焼(かわらやき)町・紺屋(こんや)町・油屋(あぶらや)町・連着(れんじゃく)町・伝馬(てんま)町・船(ふな)町など、しょくぎょうべつに町を作って、多くの人々がくらしていけるようにしました。また、芹(せり)川の外がわには、田や畑が広がり、日夏村・福満(ふくみつ)村・亀山(かめやま)村・南青柳(みなみあおやぎ)村などの村々には、農みんを住まわせ、農業がさかんに行われていました。
 近くには、中山道の宿場町としてさかえた鳥居本(とりいもと)宿や高宮宿があって、旅人でにぎわっていました。きろくによると、元禄(げんろく)8年(1695年)に、ぶしとほうこう人1万9000人、町人1万5500人が住む都市でした。

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大洞弁天堂(おおほらべんてんどう)のこんりゅう

 大洞(おおほら)の弁財天(べんざいてん)は、甲良豊後守宗弘(こうらぶんごのかみむねひろ)を中心とした甲良大工(こうらだいく)がたてました。だい四代はんしゅ直興(なおおき)が日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)こんりゅうの総普請奉行(そうふしんぶぎょう)であったため、そのこんりゅうにあたり、はいかであった甲良大工に命じて、たてさせたのです。本どうは権現造り(ごんげんづくり)で、すべて日光東照宮をまねてつくらせました。それで、彦根日光ともよばれ、彦根じょうの東きもんよけのしゅごしんとされています。
 また、甲良大工は、弁財天てんのとなりにある井伊(いい)神社をたてるなど、そのすばらしいぎじゅつは、日本国中に知られています。

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彦根はんのとくさんぶつ

 彦根はんでは、寛政(かんせい)11年(1799年)に国さんがたという役所をおいて、りょうないのさん業をさかんにし、はんのざいせいをゆたかにしようと考えました。
 そこで、国さんがたからせいさん者にしほん金をかして、よい品物をせいさんさせました。そのため、長浜(ながはま)のちりめん、羽二重(はぶたえ)、蚊帳地(かやじ)、ビロード、高宮の麻布(まふ)、さらし、政所茶(まんどころちゃ)、多賀(たが)の綿(めん)、伊吹(いぶき)のもぐさなどがはんのとくさんぶつとして名高くなりました。そして、これらの品々は、京都、大阪(おおさか)、江戸(えど)に運ばれて、はんのごよう商人の手で全国に売りさばかれました。
 湖東焼き(ことうやき)は、彦根はんがちょくせつにけいえいするという力のいれようでしたから、大へん高級な品としてひょうばんでした。とくに直亮(なおあき)、直弼(なおすけ)、直憲(なおのり)のはんしゅは、湖東焼きをあいこうしました。
このほか、彦根では、彦根ぶつだん、赤玉神教丸(しんきょうがん)、鳥居本(とりいもと)のかっぱ、などが、国さんがたのほごのもとにさかんにせいぞうされていました。

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古いでんとうとぎほうを受けつぐ彦根ふつだん

 彦根ふつだんは、江戸(えど)時代の中ごろからつくり始められたといわれています。よろいやかぶと、刀などを作っていたこうどなぎじゅつをもっているしょく人たちが、いくさがなくなりぶぐやぶきのじゅようがへったため、これまでのぎじゅつを生かしてふつだんのせいぞうにてん業していきました。代々の彦根はんしゅもふつだんのせいぞうをしょうれい、ほごしたこともあって、彦根のふつだんづくりは育ってきました。家内工業としてせいさんされていたものが、しょく人たちのそしきもしだいにととのって問屋方式をとるようになり、これにともなって分業そしきへとはってんしていきました。
 げんざい彦根ふつだんは、木地師(きじし)、宮殿師(くうでんし)(屋根師(やねし))、木彫刻師(もくちょうこくし)・金泊押師(きんぱくおしし)・飾金具師(かざりかなぐし)・漆塗師(うるしぬりし)・蒔絵師(まきえし)の7しょくといわれるしょく人たちに、ふつだん問屋からはんせいひんの部品が次々とわたされていくうちに、だんだんとかこうされていくという問屋せい家内工業でせいさくされています。仕上げられたかくぶひんは、さいごに問屋に集められてふつだんに組み立てられかんせいひんとなります。
 彦根ふつだんはもともと大がたであり、ごうかであるのがとくしょくですが、ちゅうもんにおうじてかく地のものにかたどったり、大きさも自由にかえてせいさくしたりします。きかいによるたいりょうせいさんではなく、一つ一つ手づくりですから、びじゅつてきにもすぐれ、よくせんれんされたふつだんです。
 彦根ふつだんはでんとうの古さとぎじゅつのゆうしゅうなことがみとめられて、昭和50年4月にはつうしょうさんぎょうだいじんからぶつだんぎょうかいはつの“でんとうこうげいひん”のさん地していを受けました。これは大へんめいよなことです。

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さびれる彦根にこぼち屋さん登場

 明治維新(めいじいしん)になって、日本の国が近代国家にうまれかわろうとしているころのことです。彦根はんでも、明治4年(1871年)はいはんち県のせいどが行われ、ぶしという身分がなくなりました。そのため、ぶしははんからろく(きゅうりょう)がもらえなくなり、毎日の生活にもこまるようになりました。
 しょくをうしなったぶしの中には、せんぞのふるさとである静岡(しずおか)県の井伊谷(いいのや)に帰った人や新しい土地を開くために北海道へいじゅうした人がおおぜいいました。また、商人になった人、農業をする人、新せいふや県ちょうの役人(こうむいん)になる人もいました。
 ぶしがほかの土地へうつりすむにつれ、彦根の町人たちもいてんして、彦根のじょうかには、あちこちにあき家がふえるばかりでした。そこで、あき家を買ってそれを取りこわし、べつな場所にたてなおして売るという“ごぼち屋”さんがあらわれました。
たてものの取りこわしは、ぶけやしきだけでなく、おしろの一部もこわし始めたので、彦根の町は日に日にさびれていき、古道具屋さんには、毎日のようにかざいどうぐを売る人であふれたそうです。

(明治22年の彦根の人口は1万7000人)

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彦根じょうはくらん会

 わが国の地ほうとし彦根ではじめてはくらん会が開かれたのは明治(めいじ)9年(1876年)5月3日から6月1日までの30日間で、かいさい地は彦根町、彦根じょうが会場でした。彦根町では、これに先がけ高宮村とともに、明治5年にだい2回京都はくらん会や、明治6年にオーストリアで開かれたばんこくはくらん会にさんかし、じまんの麻布(まふ)や麻織物(あさおりもの)を出品しました。
 彦根はくらん会には、井伊(いい)家のめいきやほうもつをはじめ、彦根市内はもとより犬上(いぬかみ)ぐん・愛知(えち)ぐん・坂田(さかた)ぐんの寺院や、きゅう家のたからもの・書画・文書・新発明品・せいよういりょうききなどがちんれつされました。会場になった天守閣(てんしゅかく)や櫓(やぐら)、きゅう御殿(ごてん)などは、かく地から集まったかんしゅうでたいそうにぎわったそうです。
 「博覧会物品録(はくらんかいぶっぴんろく)」には、音楽をこのんだというだい十二代はんしゅ直亮(ななおあき)がだいじにした葛城丸横笛(かつらぎまるよこぶえ)をはじめ、笙(しょう)・和琴(わごん)・琵琶(びわ)などのかくしゅ雅楽(ががく)きや、直政(なおまさ)いらいのぶき、それに彦根寺にあって、南北朝時代に竹生島寺にきふされた漢笛一ついなどもてんじされ、そのごうかさは見学者をおどろかせました。
 その他、彦根医学会社からは、そのころとしてはめずらしい胎児(たいじ)のアルコールづけや人体もけい、西洋薬種(せいようやくしゅ)などの医学かんけいひんが出品されました。また、羽細工(はねざいく)や団扇(うちわ)るい・籐細工(とうざいく)・博多織(はかたおり)・絹織物(きぬおりもの)・人力車・陶器細工(とうきざいく)など、さいしんのさん業を代表する品がてんじされました。

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アメリカいじゅう

 明治(めいじ)18年(1885年)、日本人とこうにかんするけいやくによって、磯田(いそだ)村(=今の八坂町)の西村善次郎(にしむらぜんじろう)ら5人が、ハワイにいじゅうしました。これは、日本よりもハワイの方がきゅうりょうが高いことから、じゅうろうどうにもかかわらず、いじゅうしたのです。
 その後、明治29年9月に、彦根地ほうを中心に、集中ごう雨が9日間もつづきました。このときふった雨が、1008ミリという多量で、びわ湖の水いがやく4メートルもあがりました。
 県内ではいたる所で河川(かせん)がはんらんし、家屋や田畑が流出して、ひがいのようすはじごくそのものでした。
 家や田畑を流された人々の中には、ハワイやカナダにいじゅうして、生計をたてなおそうと考える人がふえました。こうして、磯田村や男鬼(おおり)村、犬上(いぬかみ)ぐんなどから外国へいじゅうした人が、明治17年から大正元年(1912年)にかけて、やく2000人になったといわれています。

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勧商場(かんしょうば)ひらき

 明治(めいじ)10年(1877年)東京でだい1回はくらん会が開かれ、全国からお国じまんの商品がたくさん出品されました。このひょうばんを知って、全国かく地に勧商場(てんじそくばいじょう)が店開きしました。
 彦根では、明治15年ごろ西大工町(=今の本町)に勧商場が開かれました。売り出された品物は、にちようざっかひんやおもちゃるいでしたが、いつもお客さんでまんいんでした。それは、げんざいのスーパーマーケットのような店でしたから、お客さんが自由に商品をえらんで買うことができたからです。
 つづいて、明治40年(1907年)ごろ、久左の辻(きゅうざのつじ)(銀座街(ぎんざがい))に、北川与左衛門(きたがわよざえもん)が勧商場を開きました。
 このようにして、彦根では、県下に先がけて、早くから新しい商業のほうほうを取り入れながらはってんしました。

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かつやくする彦根人

 明治(めいじ)の世になると、彦根の町は急にさびれていきましたが、何とかして彦根をもとのように活気のある住みよい町にしようという気運がよみがえってきました。
 しかし、せいふの役人やぐん人をこころざしても思うように仕事ができなかった彦根の人々は、商業の道や実業家の道、さらには学問の道をめざしてど力するようになりました。

・大阪(おおさか)築港(ちっこう)のおんじん西村捨三(にしむらすてぞう)。
・大阪鉄鋼(おおさかてっこう)、住友(すみとも)セメントの宮崎鉄幹(みやざきてっかん)。
・東洋紡(とうようぼう)の阿部房次郎(あべふさじろう)、などの人たちです。

 このようにして、全国かく地でかつやくした彦根しゅっしんしゃを育てた彦根の風土は、今もつづいています。
 また、「何でも一番」という進取(しんしゅ)な気持ちが彦根人の気風にあって、明治の世になっても、彦根が、県内はもちろん全国でもさいしょという事業やこころみがたくさんあります。そのだいひょうてきなものが、地方としさいしょの彦根城博覧会(ひこねじょうはくらんかい)のかいさいでした。

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まるびし百か店のたんじょう

 彦根市を中心にした商業けんはたいへんふくざつでした。大阪(おおさか)・京都を中心にしたかん西の商業けんの北のはしにあると同時に、岐阜(ぎふ)・名古屋を中心にした中部の商業けんの南たんにもいちしています。また北りくの商業けんが長浜(ながはま)より南へのびてきて彦根と交わります。だから彦根の人々は、京都や大阪へ買物に行く人、岐阜や名古屋あるいは敦賀(つるが)ほうめんへ買物に行く人などが入りまじっていました。
 そこで、何とかして彦根の町を中心にした商業けんの広がりをつくって、近所のお客さんが彦根に買物にくるようにするひつようがあります。それには、彦根の商業に活気を持たせ、にぎやかな商店がいをつくることを考えました。
 こうして、昭和8年(1933年)、土橋町(=銀座(ぎんざ)町)に、4階だてのきんだいてきなビルがたちました。これが、まるびし百か店です。この百か店は、彦根にある20の店がきょう力して、同じたてものの中に店を出すほうほうでしたが、たくさんのお客さんがまるびし百か店に集まって、にぎやかな銀座がいになりました。そして、彦根の銀座がいが商店のたちならぶ町としてはってんしてきました。

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近江(おうみ)商人のかつやく


近江商人は、それほどいっぱんの人とことなるとくべつの人ではなかった。しかし、じょう人にはまねのできないえらさがあったにちがいない。それはにんたいとど力であろうか。

近江商人とは、江州(ごうしゅう)(=今の滋賀(しが)県)に本家をかまえ、他国で商売をする人のことで、江州で商売をする人は、近江商人とは言わなかった。

北海道は米を作らずぎょ業がさかんであったため、かいさんぶつを売って米や日用品を買った。そのため近江商人がかつやくした。

柳川(やながわ)・薩摩(さつま)の商人は、北海道松前(まつまえ)はんのほごのもとに、北海道のかいさんぶつを京都・大坂(おおさか)に運び、米・日用品・いりょうひんを北海道へ運んだ。それには湖上交通がおおいにりようされた。

近江商人は、出身地ごとにあつかう品物や売る土地がちがっていたといわれる。また、商売のやり方も少しずつちがっていたようだ。

湖東商人の多くは麻布(まふ)をかく地に売り歩いた。それも、湖東地方は、古くから麻布のさん地であった。また高宮は集さん地としてさかえた。

近江商人は、もくてき地にたいりょうの商品をおくりこみ次にしゅくしゃを決めて、そこから天びんぼうに荷分けして一日中、商品を売り歩いた。

近江商人は、江戸(えど)時代・明治(めいじ)時代・大正時代と、次々にかつやくしてきそをきずき、一代でざいをつくった者も多い。中には、大き業にせいちょうして、今もなおはってんをつづけているれいもある。

 滋賀大学きょうじゅ
 小倉栄一郎(おぐらえいいちろう)ちょ「近江商人のけいふ」より

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